落穂拾い 2006年03月17日 過去ログ転載
「たべる」という美
アニエス・ヴェルダ(どうも一般的な表記はヴァルダらしいのだが、ヴェルダと書きつづけてきたのでヴェルダとする)は、私にとっては大変気になっていた監督のひとりであった。
それは「幸福」(Le Bonheur 1965)を観たことである。この作品は最初父母とロードショーで観た。テアトル東京と記憶しているのだが、シネラマ館であるテアトル東京ではない可能性が高く、その地下のテアトル銀座だったかもしれない。
とにかく不思議な映画だったのだ。不思議のひとつはテーマが見えなかったこと。もうひとつは男性の信じられない天真爛漫さであった。そしてさらに不思議なのは魅力のある作品だったのだ。それから何年か経ってリバイバル上映があった時にまた観に行った。(高校生だったと思う。銀座にボヌールという喫茶店があった時代だ)
不思議感は全く消えなかったものの、作品としての魅力は倍増した。今でも不思議な作品である。
落穂拾いがアニエス・ヴェルダの作品であり、ヨーロッパが数々の賞を受賞し、ドキュメンタリーであり、テーマが都市問題・貧困問題であり、「食」の問題である、というので私には観ない訳にはいかない作品であった。
ジャン・フランソワ・ミレーが、今まで貴族階級の記念写真的存在だった絵画に庶民を描いた画家として著名であることは知っていた。本人も貧困層の出身で、数々の嘲りの中で絵を描いてきたことも知識としては知っていた。
彼の作品の中でも有名なので落穂拾いであるのだが、落穂拾いの意味を今回初めて知ったのである。落穂拾いは収穫後の農地に老人、孤児、障碍者だけに許された行為で、生存に対する救済措置だったのである。
ミレーは庶民を描いたのではなく、貧しい人々を描いたのである。
ヴェルダは、ミレーのその絵に対する興味からハンディカメラを持って映画作りに入る。彼女は捨てる人と拾う人を追っていく。そして、拾う人々が疎外された人々であることを検証していくのだが、実はテーマ性を持ったドキュメンタリーの手法とはかなり違うのである。
ドキュメンタリーには、事件を追う方法と日常の中からテーマを見出す方法とあるが、この作品はどちらでもない。
自分が偶然興味を持ったテーマが導入となるが、そこに強いてテーマを提示しようとしない。拾う人、食べる人、その人たちに話しかける。そして落穂拾いが実は生きる人の普遍的なテーマであるということを悟らせる。
その中で彼女はあたかも自分の人生を被せるように自分を撮る。自分の髪を撮り、手を撮り、指を撮る。その齢を重ねた身体の風景を、人が生きる行動、拾うこと、食べること、に重ねていく。
そして、拾って生きている人々が、けして特殊ではないことを知らしめる。拾って生きている人がボランティアでアフリカ出身の人にフランス語を教えるシーンは人間の生きるという行為の尊厳を教えてくれるかもしれない。
そして規格品外の農作物を投棄する生産者の姿は実に痛ましい。彼らが痛ましいのではなく、投棄される食材が実に痛ましいのである。ヴェルダはその中からハート型のジャガイモを見つけ持って帰る。ここで彼女も「拾う人」になる。
そのジャガイモを何度も映像に残す。
しかしヴェルダは声高にその矛盾を問うことはしない。
自分が拾ったもの、針の無い時計、2脚の椅子、に愛着を示す。
これは映像詩である。
私はヴェルダが車を運転しながら指で円を作り、トレーラーを写すシーンに接した時にはじめて分かった。この作品はドキュメンタリーではなく、映像詩なのである。
考えてみれば当然か…搾取せずに生きること、よって拾って生きること、それは詩なのだ。
しかし、ヴェルダは素晴らしい。
幸福で不可思議で妖しい魅力で幻惑されたと思ったら、今度は環境問題のドキュメンタリーを観にいったはずなのに美しい映像詩だった…このドラマティックな体験はどんな作り物も凌駕してしまう。
さらに素晴らしいのは齢を重ねた美しさを表現していることである。拾う人、食べる人、齢を重ねるということ…人間の根源的な行為を「美」としてとらえる。あたり前の才能に対し感動する作品である。
そして、美とは何なのか?を再認識させる作品でもあった。だからジャン・フランソワ・ミレーの落穂拾いが名作であるのだ、という最初の印象に帰ってくる。そしてヴェルダが映画を作ろうと思ったきっかけである「食べ物を拾う人を見て感動した」に帰ってくるのである。映画作りの上手さに感服してしまう。
人間の生きることを表現するなら、まず直接的に喰うことである。(けして性行為や暴力や思想ではない)喰うために拾うというたいへんプリミティブな行為を撮るという行為は、実は生の全てを表現しているように思える。
またまたヴェルダに魅せられた。
監督・脚本 アニエス・ヴァルダ
(Les Glaneurs et La Glaneuse 2000年)

アニエス・ヴェルダ(どうも一般的な表記はヴァルダらしいのだが、ヴェルダと書きつづけてきたのでヴェルダとする)は、私にとっては大変気になっていた監督のひとりであった。
それは「幸福」(Le Bonheur 1965)を観たことである。この作品は最初父母とロードショーで観た。テアトル東京と記憶しているのだが、シネラマ館であるテアトル東京ではない可能性が高く、その地下のテアトル銀座だったかもしれない。
とにかく不思議な映画だったのだ。不思議のひとつはテーマが見えなかったこと。もうひとつは男性の信じられない天真爛漫さであった。そしてさらに不思議なのは魅力のある作品だったのだ。それから何年か経ってリバイバル上映があった時にまた観に行った。(高校生だったと思う。銀座にボヌールという喫茶店があった時代だ)
不思議感は全く消えなかったものの、作品としての魅力は倍増した。今でも不思議な作品である。
落穂拾いがアニエス・ヴェルダの作品であり、ヨーロッパが数々の賞を受賞し、ドキュメンタリーであり、テーマが都市問題・貧困問題であり、「食」の問題である、というので私には観ない訳にはいかない作品であった。
ジャン・フランソワ・ミレーが、今まで貴族階級の記念写真的存在だった絵画に庶民を描いた画家として著名であることは知っていた。本人も貧困層の出身で、数々の嘲りの中で絵を描いてきたことも知識としては知っていた。
彼の作品の中でも有名なので落穂拾いであるのだが、落穂拾いの意味を今回初めて知ったのである。落穂拾いは収穫後の農地に老人、孤児、障碍者だけに許された行為で、生存に対する救済措置だったのである。
ミレーは庶民を描いたのではなく、貧しい人々を描いたのである。
ヴェルダは、ミレーのその絵に対する興味からハンディカメラを持って映画作りに入る。彼女は捨てる人と拾う人を追っていく。そして、拾う人々が疎外された人々であることを検証していくのだが、実はテーマ性を持ったドキュメンタリーの手法とはかなり違うのである。
ドキュメンタリーには、事件を追う方法と日常の中からテーマを見出す方法とあるが、この作品はどちらでもない。
自分が偶然興味を持ったテーマが導入となるが、そこに強いてテーマを提示しようとしない。拾う人、食べる人、その人たちに話しかける。そして落穂拾いが実は生きる人の普遍的なテーマであるということを悟らせる。
その中で彼女はあたかも自分の人生を被せるように自分を撮る。自分の髪を撮り、手を撮り、指を撮る。その齢を重ねた身体の風景を、人が生きる行動、拾うこと、食べること、に重ねていく。
そして、拾って生きている人々が、けして特殊ではないことを知らしめる。拾って生きている人がボランティアでアフリカ出身の人にフランス語を教えるシーンは人間の生きるという行為の尊厳を教えてくれるかもしれない。
そして規格品外の農作物を投棄する生産者の姿は実に痛ましい。彼らが痛ましいのではなく、投棄される食材が実に痛ましいのである。ヴェルダはその中からハート型のジャガイモを見つけ持って帰る。ここで彼女も「拾う人」になる。
そのジャガイモを何度も映像に残す。
しかしヴェルダは声高にその矛盾を問うことはしない。
自分が拾ったもの、針の無い時計、2脚の椅子、に愛着を示す。
これは映像詩である。
私はヴェルダが車を運転しながら指で円を作り、トレーラーを写すシーンに接した時にはじめて分かった。この作品はドキュメンタリーではなく、映像詩なのである。
考えてみれば当然か…搾取せずに生きること、よって拾って生きること、それは詩なのだ。
しかし、ヴェルダは素晴らしい。
幸福で不可思議で妖しい魅力で幻惑されたと思ったら、今度は環境問題のドキュメンタリーを観にいったはずなのに美しい映像詩だった…このドラマティックな体験はどんな作り物も凌駕してしまう。
さらに素晴らしいのは齢を重ねた美しさを表現していることである。拾う人、食べる人、齢を重ねるということ…人間の根源的な行為を「美」としてとらえる。あたり前の才能に対し感動する作品である。
そして、美とは何なのか?を再認識させる作品でもあった。だからジャン・フランソワ・ミレーの落穂拾いが名作であるのだ、という最初の印象に帰ってくる。そしてヴェルダが映画を作ろうと思ったきっかけである「食べ物を拾う人を見て感動した」に帰ってくるのである。映画作りの上手さに感服してしまう。
人間の生きることを表現するなら、まず直接的に喰うことである。(けして性行為や暴力や思想ではない)喰うために拾うというたいへんプリミティブな行為を撮るという行為は、実は生の全てを表現しているように思える。
またまたヴェルダに魅せられた。
監督・脚本 アニエス・ヴァルダ
(Les Glaneurs et La Glaneuse 2000年)
