映画『国境は燃えている』のシナリオが載っている雑誌を探したらそれは『映画芸術』の1966年4月号だった。『国境は燃えている』を論じる前に当時の映画評論誌の熱さが伝わってきた。
執筆陣は佐藤忠男、寺山修司、中平康などでシナリオも三本載っている。その三本とは『国境は燃えている』『第四間氷期(安部公房)』『24時間の情事(アラン・レネ、但しアラン・レネエと表記されている)』である。そして特集が、『国境は燃えている』なのである。この熱さの背景は現在と比べて圧倒的に封切り作品が少なかったことが上げられると思うが、映画に対する製作者側と観客の質の違いもあるのではないか?と思う。
さて、特集ではまず伊藤桂一(作家)が体験的エッセイを書いている。
その中でまだ「従軍慰安婦」という単語がなかったので、「戦場慰安婦」という単語を使っていて、揚子江岸の大きな町における朝鮮半島出身の慰安婦との体験を語っている。そして映画のギリシャ女性が敵国であるイタリア兵のための慰安婦になることととてもよく似ていると言う。しかし、「朝鮮女の日本兵に対する態度のほうが、少なくとも根底においてはきびしかったようだ」(原文ママ)と述懐する。
彼のいた駐屯地には兵隊が600人いたが、慰安婦は4人しかいなかった。
「戦場慰安婦は、兵隊の行くところ、いかなる前線にもくっついて行く。戦闘行動が休止または膠着すれば、兵隊は速やかに体力を回復するし、彼女たちの仕事も生まれてくる」
「辛酸をなめたのは、多分ビルマ地区の慰安婦だったろう。インパール作戦失敗後、玉砕の中に名もなき多くの慰安婦のまじっていることを、あまり人はいわない」「慰安婦は、従軍看護婦のように歌にも歌われないし、戦史にも出てこない。せいぜい、何パーセントかの兵隊の胸のなかに、きわめて強烈に印象をとどめさせているのだが、これで以って冥するよりほか、仕方がないことかもしれない」
岡本喜八は「餓え」について書いているが、彼は自らの作品『地と砂』で従軍慰安婦を登場させている。しかし本人は「外出も面会も禁止の予備士」だったので慰安婦は知らなかったと言う。
次に有名監督である本多猪四郎が「慰安婦係軍曹」をやっていた体験を書いている。彼は昭和15年から16年に中支で慰安所の管理をしていたと言う。
「日本軍では兵站司令部が後方任務のひとつとして慰安所を開設していたが、強姦事件は絶無ではなかった」と言っている。そして「慰安婦は大部分不幸であった。慰安団だということで応募したらこんな所へ連れてこられたという娘が何人かいた」と言い週に一回の健康診断のときにさめざめと泣かれたという。「慰安所の経営者は民間人で軍の飛行機を利用できる特典があった。彼らのひとりは「嘘もつかないとこんなところに来る娘はいない。親に金を渡してある。あの娘の働きだけで親子五人は生きていけない」と言ったという」これは業者に落ちる大きな利益と軍との癒着を想像させるし、「身売り」システムが続いていたことを、その犠牲の上に権力があったことを思わせる。
慰安所の凄まじさも記している。一日に相手をする数として「兵12下士官2将校3」
「前線から後方へ、後方から前線へ、部隊の移動時には慰安所のある通りはお祭りのような騒ぎ。こういう日は一人で30人から40人を相手にする」また「新しい娘が来ると司令部に挨拶に来た。なかなかの美人もいた。それが半年もたたないうちにげっそりと容貌がくずれていまうのには、ぞっとした」と報告している。
また前線に近いところに軍が許可しない慰安所が潜在していたという。兵隊が外出禁止でも結構商売になったらしい。
彼は慰安婦たちをこう分析する。
「人間として慰安婦たちのただただ精神的に自らの将来をきれいに考え、幸福を観念的に造り上げて生きてゆく姿は痛々しかった。肉体がどんなにけがれようと精神はけがさないと叫び続けていた」(私は肉体がケガレるなどということは有り得ないと考えているが)
はっきりと書かれてはいないが、日本人慰安婦のことのようだった。
いみじくも、人身売買、甘言が弄されたことが分かる。
戦争の持つ格差社会利用の搾取が「聖戦」の名の下に「天に代わりて不義を討つ」の下に行われたことが分かる。
『国境は燃えている』のエフティキア(マリー・ラフォレ)はパルチザンへ身を投じることによって抵抗を示したが、日本人慰安婦、朝鮮半島出身慰安婦、オランダ人慰安婦をはじめとした日本軍に管理された慰安婦
たちには「抵抗」を示せることはなかったと思われる。
他に斉藤竜鳳(映画評論家)が同じズルリーニ作品『激しい季節』との連想についてかいていて、『激しい季節』は私の好きな作品のひとつであるのでシンクロした。
佐藤忠男も『激しい季節』と同『鞄を持った女』を引き合いに出して論じている。
ヴァレリオ・ズルリーニの諸作品を再確認するのも無駄ではなさそうである。
