劇評『つく、きえる』 | leraのブログ

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劇評『つく、きえる』


 現代ドイツの劇作家ローラント・シンメルプニエニヒ(Roland Schimmelpfennig)311震災をテーマに書き下ろした作品。彼はフクシマを歩き、福島第一原発を歩いて書いた。本人曰く「コメディをやろう。恐怖には笑いをもって立ち向かおう」 




ドイツ現代戯曲に関し、鵜山仁(演出家)は宮田慶子(当劇の演出)との対談でこう言っている。「ギリシャ神話から現代にいたるまでの人間の関係性の蓄積、その認識がとてもガッチリできている」宮田も「言葉にこだわり、言葉との距離感を自覚して書かれている」と言う。





シンメルプニエニヒは従来の形式を否定し、俳優が「物語る」語りの演劇を提唱していて、演劇が本来持っている可能性を「物語る」というミニマリズムの手法を突き詰めることで発見したと言う。よってセリフの交換は全くなく、モノローグとシュプレヒコールであり、モノローグを言う場合も役者が前フリのように「そこでA氏は言う」と言い役者に複数の役割を持たせる。




細かい章だてがされており、その章にタイトルと説明がつく場合がありブレヒト的。プロジェクターと音響の存在感が大きい。セットはシンプルながら上下の二層構造になっている。プロジェクターからの映像もそれぞれ意味を持つ。




ストーリーは3部屋あるホテルで3組の不倫があり、そのホテルを経営する「眼鏡をかけた」青年は、高台で自転車を持っていて下りてこない少女に恋している。





前段は「つく」で、後段は「きえる」で震災後となる。不倫の3組の男女に変化が生じる。Z夫人は頭がふたつになり、Z氏は死んだ魚になる。A夫人は石になり、A氏は口の無い男になる。Y夫人は蛾になり、Y氏は燃える心臓を持ち男になる。




少女は鉛のようになり、青年は空気のようになる。

二人は会うことを決め青年はホテルの前で待ち、少女は町へ下りるが二人はけして出会えない。ホテルのベッドは瓦礫と化し、自転車も破壊されている。





不倫していた3組は、3組の夫婦に戻り、それぞれの変化に解決を求めようとする。

口の無くなった男は、家に飛び散ったガラスの破片で切って口をつくろうとしたり、蛾は夫の体内に入り心臓に触れようとする。





 津波の後の何もない世界を前にしても悲劇にはならない。逆に自らの不可思議な変化に対応しようと滑稽である。しかし、その対応がどうみても閉塞性しか感じられずに無力感を露呈し、変化のなかった若い二人はけして出会えない。ホテルにあったベッドの残骸と壊れた自転車が並んで置かれる。




まるで、カフカの『変身』と『城』が同時進行しているような「気持ち悪さ」()に苦笑いが出る。





この舞台に関し私にはふたつの情報が寄せられていた。




ひとつはシンメルプニエニヒの書下ろしという「事件」と、役者がタレントという「問題」であった。問題の方は私が演出の境地に達せなかったかもしれないが、少女のセリフは変に違和感を作り、けして悪くはなかった。




少女と青年はキスしそうになった堤防で待ち合わせるが、その後は知らされない。それが切ない。





新国立劇場

201364日から23日まで。

翻訳:大塚直

演出:宮田慶子