劇評『もぐらと蛇と蜘蛛の6日間の物語』
万物の創造主である神が作りしものに醜さはありえない。
ところが全てのヒトは自らの醜さを認識している。これは何なのか?
アダムとイヴが実を食べたように、知なのか?
神の無知なる醜さを自己認識することは神を超える知なのではないか
自分を知ることは、創造の予定外の暴走なのかもしれない。
知は存在をも超えるようだ。
その知は他者との関係性から生じるのであろうか?
いや、違う。
なぜなら、醜さは自己認定でしかありえないからだ。
そして、醜さを自己認定した個体は他者が命をかけてそれを否定しようとも、その認定を覆すことがないからだ。
その醜さはその個体を死にも追いやろう、あるいは
多大な犠牲を強いることもあるだろう
神も知らない醜さが個体の生命を奪うというパラドックス
そこには、恋も思想も意味もない
自己認定した醜さの汚泥の中で息絶えていくのだから…
蜘蛛は醜さに耐えられない
蛇は醜さを矮小化せんとするが、結局過去の醜さ創生に再帰せざるを得ない
神に会う前のもぐら(なぜもぐらだけが平仮名なのか?漢字を使うと竜があるからだろう)
だけが実は醜さに気付いていない。それは恋をしているからだ。
恋は盲目というギャグ、ギャグ?、自虐?
もぐらは多大なる代償行為の果てに蛇と蜘蛛との再会を希望する
なぜか?
天空の神の領域に行き、神の無知なる自らの醜さに気付いたのではないだろうか?
醜さは知なのだ…多分…
われらのうち最も勇気あるものさへ、自分が本当に知っていることに対する勇気を持つのは、稀なことにすぎない。(ニーチェ『偶像の薄明』秋山英夫訳)
今日ソワレを2回連続で観た。
何か不思議な魅力を感じたからだ。
本かもしれない。
キャストかもしれない。
あるいは彼らの新人公演を観ているためか…
私の流儀では、個別のキャストを評価する方法はとらない。稽古が自分の為ではなく他キャストのため…というように、キャストは他キャストの相互作用の中で生まれるはずのものだからだ。
しかし、あえて流儀を超えて個人的感想を述べるならば、蛇に魅せられた…もう一回観たい。
但し、この感慨にはひとつの伏線がある。
ある高等学校の演劇『ブンナよ、木からおりてこい』を11月に観て、そこに登場する蛇にみせられたからだ。この蛇と、今回の蛇、とても姿形口跡似ているのだ。
私の錯覚だと思うが…
作:小西佳那子、演出:辻智之、劇団ダダン2012年度卒業公演