オリンピックの楽しみ方 | leraのブログ

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 ロンドンオリンピックのバドミントンで無気力試合で失格があったという。





 国家表彰をし、勝利至上主義を煽るというクーベルタンの思想の反対を行き、自らが設けた勝上りのシステムの不備をつかれただけだ。





 まさか選手がその方法を独断で選ぶ訳はなく、ベンチスタッフの指示だろう。


 一番の被害者は選手に他ならない。勝利至上主義は、そのスポーツより、ゲームより、勝利を大事にするのであるから、そして国家表彰を目的にするのだからF1チームが同チーム同士では争わないことが鉄則であることと同様、自ら負ける選択は「正義」であるはずだ。





 もし責められるとするなら、その大会システムを作った運営側であり、クーベルタンの思想(個人表彰)を無視した「オリンピック精神」にあるはずだ。





 私はスポーツが好きだからこそオリンピックは嫌いである。


 勝敗は後についてくるもので、それが目的ではないからだ。スポーツを楽しみたい、いいプレイを見たい、それがスポーツの唯一の目的だ。

 

 また、いい歳をした人々が旗を振ったり、メダルメダルと騒いだり、幼児的で滑稽である。ロバート・ホワイティング(『菊とバット』の著者)も言っていたが、負けて泣くとは児戯に等しい。





 国家表彰し勝利至上主義になるから判定でもめる。大人数の役員・審判員が必要だから審判技術も落ちる。(かつて「すかし技」を知らない柔道審判がいたのは記憶にショックとして残っている)


 今回も柔道でユナニマスデジションで「物言い」がつき、今度はユナニマスデジションで逆の結果になるというのは、茶番の他の何物でもない。





 ドーピングを含め、選手も観客も審判もどんどんスポーツマンシップから遠ざかっていく。スタースポーツの末路が見えるようだ。誰もスターと呼ばれる「モンスター」あるいは「マシーン」を欲してはいない。スポーツを楽しんでいる人を見たいはずだ。





 野球部員が100人いて、ベンチ入りが20人、ゲームができるのはせいぜい12,3人というものはスポーツと呼べない。ゲームをしないとスポーツではないからだ。レベルや体格にあった(体重制限のあるアメリカンフットボールは存在する)、ゲームができる環境をつくることの方が先だ。





 本来国のスポーツの目的は、誰でも、いつでも、どこでも、好みのスポーツができる環境を整備することだ。その環境にはスポーツができる余暇の確保も含まれる。そこに公金を投入すべきで、不正経理の温床になっているナントカ協会に投入すべきではないのだ。





 オリンピックのメダルは格差社会のバロメーターと言うが、確かにそのようにも見える。スポーツの本質は「遊び」であり「楽しみ」である。その本質を追求できる恵まれた人たちに「メダル」は遠いのだろう。





 ボクシングでレフェリーがダウン(レフェリーストップ)をとらずに、しかもダウンしたと思われる方を勝にした試合で、選手が失格となりレフェリーが追放になったという。


 犠牲者は選手とレフェリーである。少なくともボクシングを愛した人たちであろうから。彼らは国家表彰と金銭の犠牲者と言えるだろう。





 あるイベントで「オリンピック」の名称を使おうとしたら、何をどう調べたのか事務局をやっていた私のところに日本オリンピック委員会から電話がかかってきて「オリンピック」という名称を使うな、使ったら法的手段をとると凄まれた。


 「オリンピック」は古代オリンピックから始まり、何も彼らの創造物でもなければ独占物でもないから無視した。その委員会には業務部とかいう専門部署があり、しつこく電話がかかってきたが完全に無視した。





 なぜ名称の独占にやっきになるのか?商権、利権がからむからだろう。現に公式スポンサー以外の商品はテレビにも映らないようにしているらしい。

 「金」「欲」「利権」「格差」「差別」の五輪だ。





 シンボルの五輪のひとつはアフリカ大陸と聞いた。

 まだアフリカで一度も大会が開かれていないことこそおかしい。開催経験国が資金や智恵を出し合ってアフリカ大会(何か国かで共同開催)を企画したらどうだろう。そうすれば某都知事と広告代理店の暴走と一線を画することができるのに…