任侠映画を定義する時に「弱者集団」とすることができる。だから資本があり政治家などと関係があり利権に鋭い嗅覚を持つ新興暴力団と衝突するのである。それは時代の違いと捉えることもできる。
任侠映画の主人公には親が無い場合が多い。親や身寄りがなく親分に拾われる、という設定が多いのだ。よって義理に縛られる。
山口組三代目田岡一雄(高倉健)もそれを地で行く人だ。母ひとり子ひとりだその母が若くして亡くなってしまい、親戚宅に身を寄せるが満足に食事も与えられず、新聞配達などの収入は全部搾取されたという。
工員になった職場で、体調を崩した友人の持ち場を勝手に替わったことを職長に咎められ、ケンカとなる。その折り殴られ、殴り返したことから馘首されてしまう。
そして家にも帰れず、街を歩いていると小学校の友人と出会い、ゴンゾー部屋(川人足の飯場)に連れて行かれ、食事をあてがわれる。その食事を前にして高倉は涙を流し「他人にこんなに親切にされたことはない」と言う。そして「一所懸命やろう」と決意する。決意してしまう。そこは山口組(二代目山口登―丹波哲郎)の配下のゴンゾー部屋だった。
そこから武闘派になる訳だが、一宿一飯の義理を地でいくスタートだったと思う。
そのシーンは胸に迫るシーンなのだが、二つの意味があった。
山谷争議団が日雇い労働者のピンハネをする暴力団金町一家と敵対した時(山岡強一はこの時暗殺されている)、金町一家の構成員の多くが差別される側に位置した人たちで、本来なら同じ場所に立っている人たちのはず、と悩んだと聞いていたからだ。(現在労働者のピンハネは合法化され人材派遣業、名ばかり店長、個人請負等になっている)
現在も反社会的集団のリクルーターは情けをかけることを術としている、という。教育現場や家庭や社会から排除され、疎外されている少年たちに情けをかけ、それが義理となってゆく哀しいシステムだ。
そこには田岡の恋も描かれるし、興業界(相撲や浪曲)のことも描かれる。
仁義を通すために下積み時代からの友人(はっちゃん―菅原文太)を斬り殺し懲役8年を言い渡される。
企画が田岡満で、原作が田岡一雄である。今だったら改正暴対法で作れないだろう。