『恋愛鑑定』からの恋愛論 | leraのブログ

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 どんなに人生が退屈でも、人が生きていられるのは人を好きになるからだ。


 先日NHKのドラマ『恋愛検定』が話題にのぼり、集まっていた人たちと恋愛談義になった。若い人は22歳、最年長は79歳、女性が多く法律関係の人や、映画関係の人が多い。その要旨をまとめてみた。


 人を好きになったり、片想いをしたり、というのは少なくとも恋愛ではない。ある「程度」(この程度がなかなか難しい)相互で好感を抱いていて、その上で現実の人間関係が発生していて、友人でも知人でもない状態ではないと恋愛ではない。こう考えるとはなはだ稀有な状態であると言える。


 ところが女性はそのタイミングで婚姻や妊娠や出産を重ねようとするからさらに困難であり複雑になる。婚姻や出産が恋愛と全く無関係ならどんなに楽か。
 婚姻の主目的は社会的待遇獲得であり、出産の主目的は生理的生物的目的達成感獲得であるから、制度や科学的進歩があれば恋愛と無関係になる。


 人を好きになることの不思議は「一目惚れ」で分かる。友達は会話などのコミュニケーションを用いてはじめて形成される人間関係だが、人を好きになるにはコミュニケーションも会話も不存在で可能だからだ。
 ならばどんな原因で人を好きになるのか?


 好みのタイプという場合があるが、好みのタイプを持つというのはあくまで条件提示であり、好きな人が「現れない・できない」場合の保険で、二次的目的の動機づけになる。つまり、婚姻しなければならなくなった時(さて、どんな時だか…)、あるいは異性と交際しなければならなくなった時に、好みのタイプだったら許容できると自分に動機づけする訳である。


 また「好みのタイプ」は、リビドーと深い関係がある。フロイト的フェティッシュ理解として面白い。つまり、生物としてのヒトは性行為を唯一の生存目的にしているから、性欲を感じることを最も重要と考える。よって性欲を抱く動機が必要で、それが「好みのタイプ」となる。確かにその人を好きではなくとも、会話がなくとも性行為はできる。


 「コクる」(告白する)効果については、人を好きになるにはまずその人を認識しなければならないから、「コクる」事は絶対必要で、コクられた場合内分泌のような生物的システムが働きその対象に好感を抱く場合もある、と言う。特に中学生時代はそうらしい。

 また、コクって嫌われた場合、自分のその対象が好きだと言う感情も冷める場合がある。これは先のリビドー的フェティッシュ感情との関係があるのかもしれない。

 しかし、コクらずに自己感情を保持する選択もあり、これは自己愛だ。


 不思議な事に、認識し、好きになり、相思相愛になった後がどうしていいのか指針がないのだと言う。徒にデートを重ねても飽きてくるので、生物として特に一年中発情期の人類としては性行為のステップに進むか、婚姻と言う波乱万丈の舞台に上がるか、そのどちらかしかない。それが辛いのだという。


 ストーカー心理はフェティッシュの純化であり、破滅美学である。自らが惨めになればなるほど美を感じる究極のメンタル的なマゾヒズムである。これは無理心中とはそぐわない。


 なぜパチンとスイッチが切れるように恋愛感情は消滅するのだろうか?

 また夫婦に限らず恋愛感情がなくなっても、あるいは最初から無いケースでも仲良く同棲できるのは「仁義」があるからだ。仁義は一生モノなのだ。


 ドラマ『恋愛鑑定』のテーマは「どうすれば対象者が自分を好きになるか」である。
 その解法は多くの人が自分が他者を好きになった原因を分析し、それを利用すればいいのだが、そう簡単ではない。なかなか自分が好きになった原因の分析は難しいのだ。


 少なくとも対象者のフェティッシュ傾向を探りそれを利用する事。フェティッシュ傾向は、持ち物、読書傾向、服装から探れる場合があると言う!あくまでも、あくまでも例だが、哲学書を読んでいる男性のフェティッシュ傾向は理知的な外見と細い顎だと言う。ほんまかいな?


 次にはなんといってもセックスアピールだと言う。ところがこれはフェティッシュ傾向とも連動しており難しい。例えば街中で水着で現れたら、これはセックスアピールではない。


 対象者を好きにさせることはほとんど無理なので、少なくとも「自分の存在を認識」させる努力は不必要ではないということになった。

 そして、絶対に必要な「認識のさせ方」は、優しさだと言う。結局は「情にほだされる」ということか…