編集の和泉淳から言わせると一連の『葵上』(三島由紀夫近代能楽集)上演は「三島由紀夫をぶっ壊す」というコンセプトだったと言う。それは挑戦であり、理解を深めるということでもあったのだろう。
学生演劇やアマチュア演劇では、再演には特別な意味があると思う。それは再演が少ない事も意味しているだろうが、商業演劇の再演とは全く意味も存在価値も異なる。なぜなら同じものではなんら意味がないからだ。
この2012年4月20日に演じられた『葵上』は、3月9日に演じられた『葵上』の再演にあたるのだが、意味合いが随分と異なった。3月9日公演では、道具衣装などを極力そぎ落とし戯曲のコアな部分だけ抽出したように見えた。初演ということもあるのか、それはそれで緊張感を出すことに成功していて、すでに公言されていた再演への不安を醸成するものでもあった。
今回の再演は、衣装や化粧や照明に拘った演劇らしい舞台だった。
また幕を利用した演出は会話や言語を引き立たせることに成功していて、初演とは全く別の舞台を醸していた。よって初演の緊張感は増しており、さらに役者の練度が増したためか鬼気とした空気を作ることに成功しているように見えた。
康子(能で言う六条御息所)は陰鬱な登場から哀れみを乞う。それは光(能で言う源氏)の強い抵抗を予想しているからだ。しかし、彼女は光が持つその哀れみに対する優越感を利用し呪術を駆使し、光を自分の世界に誘おうとする。
光は光で、その世界つまり康子の奏でる現実にはありえない世界に向かうことの誘惑に勝てない、というより実はそれを望んでいるように思える。彼の過去は彼だけのものではないことを知らされるのだ。
康子は、ヨットで行けるはずの、行くはずの別荘を光に見させる。
光はその「計画」にあたかも夢があるように思う自分に気づく。その光の逡巡は巧みに演じられていた。
しかしその二人を現実に引き戻そうとするのが葵(能で言う葵上)の苦しみである。その苦しみを二人が「首を引き裂かれる鶏の声」としてしまえば、新しい世界が拓けたのかもしれない。
その時の康子の目的はなんだったのだろう?康子の求めるものとはなんだったのだろう?康子を演じた石見舟の演技は鬼気としていて、観客の全てを「別荘」に誘うようだった。(生霊を鬼気としたと表現することはナンセンスか?)
この戯曲を能と比較することが意味があるのかは、はなはだ自信がないが、能の序破急を見事に踏襲していて、ラストには大変感心した。
パンフレットの中で石見舟が能のおける康子の葵上への思いは「恨み」であるが、ここでは「優しさではないか?」と提示している。バタイユの「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」という言葉を例示し、康子は生の中にありながら生を称えることができない存在と推量している。つまりエロティシズムを支える何かが失われてしまっている、と言う。それは「生霊」の存在論(?)としてはエロス的な、秀逸な、演劇的な解釈で面白いと思う。
女性看護師役を演じた清水美江が序をつくる重要な役割を果たし、初演よりはるかによくなっていた。再演の後があるなら、それはそれで楽しみだと思う。
2012年4月20日
作:三島由紀夫
編集:和泉淳
六条康子:石見舟
若林光:和泉淳
若林葵:井ノ上理華
看護婦:清水美江
照明:野村望帆
音響:吉竹優衣
衣装:山澤沙江子、タリ、雨宮真希
パンフレット:石見舟