小さなきのこ雲と祈りについて | leraのブログ

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ベルリンからの寄稿


小さなきのこ雲と祈りについて――15日付Berliner Morgenpostの1面を見て


 3月14日福島の原子力発電所で爆発が起きた。


 塵を巻き上げてもくもくと伸びていった小さなきのこ雲は、瞬時に66年前のきのこ雲を連想させると同時に大きな恐怖を呼び覚ました。放出された放射線量や被害者数、大きさなどといった、この2つのきのこ雲の性質が全く異なるものであろうとそこには大きな意味はない。


 なぜならば、この2つが同じシルエットを持っているということだけで、66年という時間を簡単かつ充分にリセットしうるからだ。


 つまり、わたしたちは先の大戦で何を学び、何を反省してきたのか、という問いが今最も先鋭かつ緊急の問題として突き刺さっているのである。


 わたしは無論66年間だけのことではないと考えている。これは「日本」などという実体のない虚構の話ではなくて、もっと人間性を包括するような広い視野をもって観察すべき事態であるはずだ。


 人間が死ぬとその多寡に関わらず「祈る」という言葉が聞かれる。しかし実際のところこの「祈る」という行為にはどのような効果・意味があるのだろうか。


 死者を、その時々の共同体の習慣に充分則る形で葬るということは、人間が共同体を維持していく中で極めて重要であり、さては根幹をなすものである。そして遂にはその死者を「復活」させることをも、この共同体的行為は可能にしている。死にゆく運命を背負った人間は、常に自分がこの世界にいたという痕跡を残さんと願っている。「祈る」という行為は、そう表明することによって、死者が確かに世界に痕跡を残したことを確認する作業なのである。


 ここで充分に注意しなければならない問題がある。この「祈る」という行為は、現代社会が想定しているような規模では決して行われえないということである。


 では、今行われている「祈り」は何なのか。

 わたしは、それは死者を「死」という抽象化された事象に収斂させてしまうような行為でしかないと考える。すなわち、この「祈り」がもたらす効果は、「死」の平等化、大衆化である。具体的に言えば、今回の大震災において、天災と人災の区別をなくしてしまうのである。


 この「祈り」の限定性については、ハンナ・アーレントの「世界」と「有名性」を考察に入れれば自明のことと思える。


 戦後の「反省」がこのような「祈り」の被膜を突き破らなかったのは皆が認めるところであろう。そしてそのツケがこのような未曾有の最悪な形で表出したことを先ず認識しなければならない。その時にやはり「祈り」は一つの壁となって立ち現われる。


15.3.2011