花が終わって↓、実が色づき始めている↑。3月にはもっと濃い青紫色になる。

この実は食用可能らしい。

非常に強健なようである。中国原産。メギ科

かなりの強剪定された(昨年春?)が、たちまち道にはみ出すほどに茂った。

庄下川水際の草地に咲くヒメリュウキンカ。開花株が増えてきた。

過酷な度重なる草刈りによって、大株のものは見当たらないが、株数は減っていないように思う。

開花数はさらに増えてゆくはず。

早春の花である。

見える橋は上生島橋

生嶋庄についての解説:

市域中央部にあった庄園。九条家領生嶋庄や京都長講堂領生嶋庄などがあるが、相互の関連は明確ではない。また鎌倉時代以降たちばな御園内生嶋村が浄土寺門跡領としてみえ(嘉元二年一二月一七日「寄進米上日記」勝尾寺文書)、当庄の領有関係は相当錯綜していたようである。

九条家領生嶋庄は、源実国(頼光の孫)が開発した地で、実国四代の孫雅行が、康治元年(一一四二)皇嘉門院聖子(藤原忠通の娘・崇徳天皇の中宮)寄進し、年貢一〇〇石を備進することで忠通の下文を得たとされる(正応四年七月日「覚照重申状案」九条家文書)。皇嘉門院の所領はのちに弟九条兼実の子良通に譲与されていることから、当庄も同様の経過をたどったとも考えられるが、治承四年(一一八〇)に作成された皇嘉門院の所領処分状に当庄の名がみえないので(同年五月日「皇嘉門院惣処分状」同文書)、九条家領として成立するに至る詳しい経緯については一考を要する。承久二年(一二二〇)には五三町分の役夫工米勤仕を了承している(一〇月一五日「仲雅請文」民経記寛喜三年一〇月記紙背文書)。建長二年(一二五〇)九条道家は孫の忠家に譲与している(同年一一月「九条道家初度惣処分状」九条家文書)

鎌倉時代後期には本所の九条家が当庄の収公を図り、開発領主子孫で預所職の覚照が手継案を携えて提訴し、正応二年(一二八九)に覚照の主張を認める裁定が下されているが、九条家は裁定を拒否し、さらに訴訟が繰返されていった(前掲正応四年七月日覚照重申状案など)。建武三年(一三三六)八月二四日の左大将家政所注進当知行地目録案(同文書)に当庄がみえ、南北朝時代においても引続き九条家領として領家職を保持していた。なお文永四年(一二六七)に生嶋庄富松とまつ郷内の公田七町余が善峰よしみね(現京都市西京区)観念三昧寺供田として三鈷さんご(現同上)浄証に寄進されているように(同年二月八日「散位某奉書」京都大学総合博物館蔵三鈷寺文書)庄内には富松郷はま郷などの郷が所在した。

カラシナの株の数はかなり減少。掘り越して除去されていた。

芥子菜も立金花も鎌倉時代には日本へは入っていなかった。

桜はまだ裸木

今日は少し暖かだったせいか、時間の関係か、遊歩道を行き交う人が多かった。

女子大横の空き地から出ていく車

伐採地実生の松の芯立てり 千原満恵
 
朴の木までの同行 伐採の若者と 伊丹公子
 
伐採の木を選びをり雪焼けて 中田ゑみこ
 
伐採の谺の雪となりにけり 西村博子
 
御幣紛れる 伐採予定の 風の林 伊丹公子
 
朴咲けり伐採音の頂点に 熊谷愛子

栗山のポンプ場の北側のお家の梅

水仙や薬の御園守るあたり 黒柳召波 春泥句集
 
見ぬ方の御園の瓜の汗ふかん 秋色 俳諧撰集玉藻集
 
御園守ル翁が庭やとうがらし 蕪村遺稿 秋