1月にキルタンサスがこれほど咲いているのを見るのは初めて。

ゆみが来るキルタンサスが桃色に

かなり以前の作品である。「ゆみ」は孫の名前。

これは春休みに来尼の孫を詠ったものである。

キルタンサスの名を知ったのは10年以上前である。ある人から自分では育てられないからと苗を貰った。

その後、伊勢志摩に旅行に出かけた折、海辺を散歩しているとどの家の門前にもこの花の鉢植えが置かれているのを見て驚いた。キルタンサスには夏咲き種と冬咲き種があるよう。ネット上で知った新知識。

同じ町で、多くの家が同じ種類の植物を育てていたのに気付いた経験は他にもある。風の盆へ出かけた折には、多くの家が酔芙蓉を育てておられ、園芸店でも酔芙蓉がたくさん並べられていた。近鉄沿線の壺阪山を巡った時には、多くの家の前に立金花の鉢が置かれていた。

 キルタンサスは最近ではもっと鮮やかな朱色のものなども見かけるが、我が家近辺ではそれほど多くは見られない。

原産地南アフリカでは山火事の後などに咲き出すというので、ファイヤーリリーとも呼ばれているとか。

 ↑尼崎の寺町の西側の家の前

7泊8日滞在の孫との最後の散歩コースは、

阪神尼崎駅前中央公園2階→尼崎戎神社→寺町 善通寺・大覚寺・長遠寺・専念寺→貴船神社

大鳥居より東側は、神社の境内ではなく、神田公園

燈篭について簡単な講義をしたら、大学の講義みたいと言われた。

境内のミモザ そろそろ花芽が出てきている

この木には、「ミモザ・アカシア」と正確な樹名札が付けられている。

何度も問い合わせを受けた結果なのであろう。

幼木の頃から何度もこのブログで樹形を紹介している(特に花時)が、成長が早い。

樹齢は20年になっていないと思う。

 

 首無し地蔵堂  八角堂  善通寺

由来
今から三百年前、善通寺にありがたい地蔵さまがまつられていました。
ところがある日、心無い者が首から上をとって庄下川に捨ててしまいました。
それ以後は、首のない地蔵様、「首無地蔵尊」と呼ばれたそうです。
ある時、尼崎沖で漁師が漁をしていたところ、地蔵さまの御首が偶然網にかかりました。信仰心の厚い彼はその御首を家に持ち帰り、朝夕手を合わせていました。
しかしその漁師、「ある理由」から地蔵さまの御首を善通寺へ持っていくことになります。
その「ある理由」とは・・・
毎夜、夢に地蔵さまが現れ、こうおっしゃるのです。「善通寺に返してくれ。さすれば首から上の病を治してみせよう。」
何度も夢に現れるものですから、いてもたってもいられなくなり、善通寺の学解(がくげ)上人のもとへ相談に行きました。
彼の言葉を聞いた上人は、試しに御首を地蔵さまの胴体に戻してみることにしました。
すると夢のお告げ通り首と胴体がピッタリ一致したのです。
驚いた上人は、この地蔵様が尋常でない事を理解し、広く世の人々の篤志を仰いで地蔵堂を建立し地蔵様をおまつりしました。その後、病気・入学・老人ボケなど、首から上に関する願い事で、お参りする人々は絶えなかったといいます。
しかし昭和20年6月1日、太平洋戦争による空襲で御堂が消失してしまいました。だがなんと御首から上は、そのまま南を向かれた状態で全く無傷のまま発見されたそうです。ちなみに御首から下は粉々に破壊されていたといいます。
この出来事により地蔵様は御首から上だけになりました。
その後、昭和37年7月、当時の檀家、信者の方々に多数の御協力を得て、ついに現在の八角堂が新しく建立されました。
お堂内のお厨子には御首が安置されており、厚くおまつりされ今日に至っております。
 善通寺のHPより。

 

善通寺 秦武文供養墓

専念寺 赤門

貴船神社境内で初見の石碑  関西学院大アメフト部の提供

甲子園ボール優勝記念の、枝垂れ桜の植樹の場所がなくなったためか。

南側の門 寺門のような感じ

それより前に大鳥居がある。画面右側は歩道を隔てて国道43号線。

43号線建設以前のこの辺りの風景は知らない。

 

家に戻って孫滞在中2度目の焼きそば

 

焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、年越そば、鍋焼きうどん、すき焼きは私がシェフ。

パスタは提供する機会がなかった。長女制作のものではオムライスが印象に残っている。

玉子の被せ方が上手い。そのほか、おなます、黒豆、数の子は妻の作品。それ以外はの2点の外注お節を

頂いた正月であった。

 

深夜には横浜の自宅に帰り着いたよう。

 

最優先の孫との散歩去年今年

 

というわけで、受理した年賀状さえまだ読み終えていない。