世界中を襲った、"5.1セナショック"
タンブレロの悲劇を、プレスはどう報じたのか―。また人々の動きはどうだったのか―。
当時の日本国内の新聞を中心に関連記事を検証しつつ、「あのとき」を回想する。
なお、真実を伝えるために敢えて、事故当時の写真も掲載する。
<1994年(平成6年)5月2日月曜日 朝刊>
「セナ選手 脳死状態~F1レース中 激突事故」
朝日新聞(14版)23頁
【イモラ(イタリア)1日=AP】イタリアのイモラで1日行われたF1シリーズ第3戦、サンマリノGP決勝で、
壁に激突し、ボローニャ市内の病院に運ばれたアイルトン・セナ(34)は脳死状態になった。
入院先のマジョーレ病院によると、セナは生命維持装置をつけているものの、回復の見込みはないという。
【パリ1日=共同】1日、イタリアのイモラで行われたF1シリーズ第3戦、サンマリノGP決勝で、
3度の総合優勝を果たしている実力派人気ドライバー、ウィリアムズ・ルノーのアイルトン・セナ(ブラジル)が
レース6周目に時速300キロを超えるスピードで走行中、コースわきの壁に激突する大事故を起こした。
予選1位だったセナは決勝でも事故が起きるまではトップで走行。しかし、6周目に左曲がりの
タンブレロ・コーナーを曲がり切れず、フェンスに激突。マシンは右側を大破し、前、後輪は大きく吹き飛んだ。
救急員が現場に急行したが、セナの救出には約15分掛かった。サンマリノGPでは前日(注:4月30日)の
公式予選最終日に、ローランド・ラッツェンベルガー(注:ラッツェンバーガーの表記もあり)
(オーストリア、シムテック・フォード)が走行中、壁に激突し、死亡する事故が起きていた。
↑セナが病院に搬送された後に撮影されたFW16。
※上の新聞は14版、午前1時半頃に刷られたものだと思われる。
アイルトンが亡くなった(心停止状態になった)のが、イタリアの現地時間の1日午後6時半過ぎ。
日本との時差は約7時間あるので、こちらの時間では翌日2日の午前1時半過ぎに亡くなったことになる。
つまり、この朝刊が刷られた直後。夕刊では一面に掲載されるほど、セナの死は大々的に報じられた。
<1994年(平成6年)5月2日月曜日 夕刊>
セナ選手 F1決勝で激突死~事故招く?ハイテク禁止~安全よりショー優先、問題コース死傷3件
朝日新聞(4版)1頁
イタリアのイモラで1日行われたF1シリーズ第3戦、サンマリノGP決勝で走行中、壁に激突して
ボローニャ市内の病院に運ばれ脳死状態になっていたブラジル人の人気ドライバー、
アイルトン・セナ選手(34)は、同日夕、死亡した。治療に当たった医師は「あらゆる処置を施したが、
午後6時40分(日本時間2日午前1時40分)、心臓の鼓動が停止した」と発表した。
同選手は時速300キロで走行中、タンブレロと呼ばれるカーブを曲がり切れずに壁に激突。
意識不明の状態で医師の緊急処置を受け、ヘリコプターで病院へ運ばれたが、頭の骨を折っていた。
サンマリノGPでは前日も、オーストリアのローランド・ラッツェンバーガー選手が壁に激突して死亡しており、
1日夜のイタリア国営放送のニュースはF1レースを「度重なる事故と人の死を横目に継続されていく、
恥ずべきグランプリ」とコメントした。
興行面に響き今年から措置
昨年までハンドルを握り、セナとライバルだったアラン・プロスト(フランス)は、ラジオ番組の中で
「ショーとしての要素を高めるための規則変更ばかりが行われ、安全性を高める努力がなされなかった」と、
国際自動車連盟(FIA)の姿勢を批判した。
F1の主催者は、スリルや接戦を求めるファンと、事故をなくそうとする選手との間で揺れ動いてきた。
セナが運転していたウィリアムズ・ルノーは、92、93年に圧倒的な強さで年間王者に輝いた車だ。
強さの秘密は、コンピューター制御された「アクティブ・サスペンション」に代表される
ハイテク装備にあるといわれた。車の姿勢を一定に保つアクティブ・サスペンションは、
ドライバーの技術を助ける手段になっていた。ただ完成度は各チームによって開きがあり、
使いこなせないチームは、まったく優勝争いにからむことができなくなっていた。
FIAは、興行面に悪影響を及ぼすこと、ハイテクによってドライバーの運転技術の比重が下がり、
スポーツ性が失われたことを考慮。ことしからハイテク禁止を打ち出していた。
今回優勝したミヒャエル・シューマッハー(ドイツ)は、度重なる事故に、
「きょうレース前、彼と私とゲルハルト(・ベルガー)で、次のモナコGPで安全性について
話し合う約束をしていたんだが…」と語ったと外電は伝えている。
GP1日目(注:4月29日)には、ルーベンス・バリチェロ(ブラジル)が激しくコース外の壁に激突し骨折。
翌日(注:4月30日)にはローランド・ラッツェンバーガー(オーストリア)が事故死した。
コースに構造上の欠陥があったのではないかとも考えられる。
外電によると、3位に入賞したミカ・ハッキネン(フィンランド)は「タンブレロ・コーナーは超高速で進入するのに、
ひどい凸凹がある」と指摘した。
車体材質の進歩などで安全性は高まり、82年以来、F1レース中の死亡事故は途絶えていた。
しかし、今回の事故で「安全神話」は崩れた。
ブラジルは3日間の服喪
国民の敬愛を一身に受けていたセナ。ブラジルは世界に誇るスターを失い、「暗い日曜日」となった。
セナはサンパウロ出身。昼下がり、軽食堂はどこもしんとしていた。
テレビが事故を速報、イタリアからの激突の映像を繰り返す。
男たちは黙り込んでいた。路上で泣いている若い女性もいた。
テレビの中継のなかで、ある地方の老人は「息子を亡くしたようだ」。「ブラジルの時間が止まった」と話す人もいた。
最近ブラジルで行われたスポーツ選手の人気調査で圧倒的な1位。
年間数十億円を稼ぐにもかかわらず、謙虚で温かい性格が、尊敬を集める理由だった。
フランコ大統領は1日、セナ死亡で「ブラジルは2日から3日間喪に服す」と宣言した。
「戦う者同士」―本田氏と親交
F1で3度の総合優勝という偉業を残したセナは、ホンダのエンジンに強い愛着を持っていた。
ホンダは1964年のF1参戦から92年に撤退するまで、計71勝を挙げた。
そのうち、32勝は、87年にチームに加わったセナによるものだった。
87年から、セナのレースを担当してきた本田技研工業の市田勝巳さん(46)によると、
セナは、故・本田宗一郎氏を尊敬し、親交も厚かった。セナを紹介された本田氏は初対面の時から、
レースにかけるセナの情熱にほれ込み、セナを自分の子どものように思っていたという。
市田さんは「ブラジルから、単身F1に乗り込んだセナと本田さんとは、
欧州の伝統の重圧を受けながら戦う者同士の連帯感があった」と話す。
90年、セナの2度目の総合優勝の表彰式では、F1への貢献者として、本田さんも表彰された。
この時、二人は、表彰台の上に並び、一言も言葉は交わさずに、見つめあって涙を流したという。
その本田さんが死去したのは91年8月。セナは直後のハンガリー・グランプリを、腕に喪章をつけて戦った。
エンジンが不調だったにもかかわらず、優勝した。セナは「この勝利を、本田さんにささげる。
私は、本田さんの瞳の奥に、モータースポーツへの情熱を見て、感銘を受けた。
その気持ちを胸に、このレースを戦った」と、目を潤ませながら、語っていたという。
深夜のTV高視聴率
2日未明のフジテレビ系の中継では、11.8%(ビデオリサーチ社調べ、関東地区)と、
深夜としては異例の高視聴率を記録した。
F1グランプリは、日本では、1987年から全レースをフジが放映してきた。







