大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”~第十八回(3)ー②定子の出産とその死 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

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 ※2024年8月7日19:45にタイトルを一部変更しました


②定子の出産とその死

長保二年十月~十二月にかけて、一条天皇は定子の出産に関する雑事について、行事蔵人の菅原孝標に命じています。(ちなみに孝標は『更級日記』の作者として有名な菅原孝標女の実父に当たります。博士の家柄に生まれながら、教授職には就かずにこのときは六位蔵人として仕えていました)本来なら伊周や隆家が後見を務めるべきなのですが、未だに復権が難しいことから蔵人に任せるしかなかったようですぼけー

十二月十五日、定子は第二皇女・媄子を出産しますミルクしかし後産が下りない、つまり胎盤や卵膜が子宮に残ってしまう状態(胎盤残留)となり、翌十六日に失血死してしまいます。享年二十五歳でした。

一条天皇は悲嘆に暮れ、参内した行成に対し「皇后宮(定子)已に頓逝す。甚だ悲し」えーんと語ります。一条天皇は道長に参内を命じましたが、ちょうど詮子も危ういということで道長はそちらに行ってしまっています。ただ、『権記』によればこの時の詮子の状態はそれほど重くなかったようです。

詮子の許に参じた道長でしたが、発狂した尊子の母親・繁子につかみかかられてしまいますガーン『権記』によれば、その声は道隆や道兼に似ていたといいます魂

定子の葬儀は、この日しかないということで十二月十七日に行われることが決まり、右大臣の顕光がその指揮を取ることになります。しかし顕光は歯痛歯を訴えて出てきませんでした。また、葬送に関することや遺令(皇后や東宮などの遺言。遺命)を確認するために源俊賢が勅使として立てられ生昌邸に派遣されたのですが、皇后宮職の官人も、伊周ら高階氏の人々も、定子と親しかった人々はそこにはおらず、このために俊賢は葬送や遺言について一条天皇に報告することができませんでした。あまりのことに「人の心に似ず」イラッと俊賢が憤慨していたことを行成は日記に書き残しています。

 

 

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