夫が出張でいない日。
過去のわたしだったら、
「自分の時間をどう過ごそう?どこへ行こう?誰に会おう?」
と考えていたと思う。
夕飯を作らなくて良いのなら。どこかで美味しいものを!と。
しかし今は、そんな日がやってきても、
ゆっくり呼吸法と瞑想をし、
仕事をし、
お香を作り、
友人の山からたくさん届いたカボスでポン酢を作り、
ちょっとしたつまみを作って、一人で一杯やって。
灸をうって、眠ってしまう。
合間合間に、ノート書きとヨガプラクティスを入れて。
こうなったのは、マレーシア暮らしを経てから。
それ以前に東京で生きていたわたしと、
いまのわたしは、行動パターンと意識がまるで違っていて、
自分でも戸惑う時がある。
え?それやる?
それで本当にいいの?
みたいな。
でも今のわたしには、
本当にこれがいいみたい。
過去の東京暮らしは、
生まれ育った街で、どこかに行けば誰かがいる環境で。
「夕飯どうしよっかな。あ、あそこに行こう」と、ちょっと呑みに行けば、
行った先に誰かしらがいて、そのまま流れで2軒目が決まって、楽しい夜を過ごしたりできた。
それが日常だった。それはそれで、めちゃくちゃ楽しかった。
そこからヒューンと飛んだマレーシア暮らしは、
当たり前だけどそのような環境にないし、
(そもそもムスリムの多い国なので、酒を呑む、もどこでもできるわけではない)
徒歩で気軽に毎日誰かに会うことは無くなった。
生まれ育った地元ではないから、そのような人間関係も兼ね備えていないし、
治安もそこまで油断していたらダメだし、ね。
しかも当時、時代はコロナ禍。
MCOというロックダウンもあった時代。
外出が、まじで気軽じゃない時もあったんだ。
その経験をしたから、
人との関わり方、自分との関わり方が変わったのだ。
過去にしていたような、なんとなく時間や暇をつぶしたくて(それはつまり自分の寂しさを埋めるため)、
呑んだり、誰かに会ったりすることが無くなった。
誰かと過ごす、という選択肢の他に、
それまでは持ち合わせていなかった
自分と過ごす、という選択肢を知った。
この「自分と過ごす」がとんでもなく心地が良くて、
とんでもない意識の成長を起こすことを知ってしまって、
それからはもう、過去の自分に戻れなくなったのだ。
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自分の時間を24時間フルで自分のペースで使えることは、とてもうれしい自由。
だからと言って、
どこかに出かけるとか、
誰かに会うとか、
を入れ込まなくてもいい。というかむしろ、自分のことをしたい。
作りたいお香を作り、
作りたいおかずを作り。
ノートを書いて、
自分と会話をしていたい。
え?本当にそれでいいの?
地味じゃない?
引きこもりなの?
みたいなことを問いかけてくる、過去の自分が付き纏ってくるけれど、
いまの自分は本当にこれが良くて。
派手でもなんでもない、ただの生活だけれど、
ポン酢を作るためのカボス(友人の山で収穫された)を絞っているときに、
「あぁ、最高だな」
と感じ、
洗濯物を取り込みにでたテラスで見上げた空が、黄金に輝いているのを見つけて、
「どうなってのかな?この美しさ」
と感動してしまう。
地味になったように見える今の方が、
派手に見えていた過去よりも、
よっぽど心の中はお祭り騒ぎで、感性が豊かになったような気がするよ。
人間はこうして、変化を重ねてゆくものなのね。
この先、さらに自分はどのように変化してゆくのだろうか。
未知もいいとこ。

