熊本城の最上階6階に上がってきましたが一言で言うと城と言う感じではなく普通のビルの展望フロアという印象です。
エレベータもありますが各階の展示を楽しみながら階段を上がってきました。
大天守の6階から小天守を見下ろした風景です。小天守は加藤忠弘時代に継ぎ足されたものです。
上から見下ろすと崩壊した石垣がまだかなりの部分を占めているのが分かります。
宇土櫓もまだ地震の被害が目立っています。当然櫓内の見学も禁止されています。
山頂に仏舎利塔が見える山が花岡山ですが加藤清正が熊本城の石垣を切出した場所で、西南戦争の際は薩摩軍が熊本城に砲撃を行った場所でもあります。
眼下に本丸御殿が見えますが今回本丸御殿も見学制限されていましたので昭君の間も見れませんでした。
城の西側に藤崎台球場が見えます。この先の段山辺りから薩摩軍の攻撃が激しく激戦が繰り返された場所です。後で訪れますが藤崎台の巨大楠から銃弾が見つかっています。
城内にはかわいらしいシャトルバスも運行されていました。
奉行丸を回って加藤神社へ向かいます。南西(未申の方)にあることからその名が付けられた未申櫓です。
地震で大きな被害を受けた熊本城の被害状況を伝えるパネル展示が衝撃的でした。
今も復旧されていない箇所も多く完全復旧はまだ相当先になりそうです。私も一口城主として微力ですが応援していきます。
復旧作用中の城内では膨大な量の瓦がおかれていました。
膨大な量でしたので作業の大変さを感じました。
このまま専用通路を通って加藤神社に向かいます。
加藤清正を主祭神と祀る加藤神社です。
創建は1871年とのことです。いつまでも領民に愛されている清正さんです。
朝鮮から持って帰ったものか清正公の旗立石というのが置かれていました。朝鮮で虎と恐れられた清正です。
ここ加藤神社からの眺望もなかなか凛々しいですね。3つの天守が一枚に収まります。
宇土櫓の石垣の基礎部分にもセメントの補強が行われているようです。
城内は広いですが二の丸を通って藤崎台方面へ向かいます。
西の門を通りしたが石垣が網で囲われ耐震対策が図られているようでした。
札の辻を起点とした豊前街道、豊後街道がここを通っていたとのことです。
ここは石垣が崩落したまま放置されているのか敢えて見せているのか不明ですが地震直後といった感じです。
少し歩いて城の西側にある藤崎台球場を訪れました。この辺りは西南戦争時には藤崎台神社が鎮座しており両軍の激戦が交わされたのをこの楠木は見ていたと思われます。
樹齢は何百年になるのか想像もできない大きさの楠が7本も存在しています。実際に楠の幹から銃弾が見つかっていますし銃弾が飛び交ったことでしょうね。戦争の生き証人と言って良いでしょう。
法華坂を上がって桜の馬場に向かいます。法華坂の名前はかつて加藤清正が建立した法華宗の本妙寺がこの辺りにあったからとのことです。
案内板があって助かります。
江戸でいえば日本橋に相当する街道の起点となった札の辻跡です。
桜の馬場では観光客向けの食事やお土産処があって活気が溢れています。(城彩苑)
中央のステージではおもてなし武将隊のパフォーマンスが人気でした。
この後は後方の熊本城ミュージアムわくわく座を訪問します。
わくわく座の2階では熊本城の案内や西南戦争の解説などをビジョンで勉強することができます。
館内の展示では西南戦争の際の熊本城の籠城についての展示解説が行われており、いろいろと初めて聞くことなど知識になることが多かったです。
籠城中の食料不足は深刻だったようです。事前に天守閣が火災を起こして備蓄米が焼けてしまった影響が大きかったのでしょう。
このまま続くと本当に餓死者が出るような事態になった可能性もあったのかと思います。
片倉連隊長の話も初めて聞きましたが戦死した日に女児が産まれた奇跡に驚かされます。
命が次につながって良かったと思いました。
包囲網を突破して籠城の様子を伝えた勇気あるこの兵士の名前も初めて聞きました。長篠の戦の鳥居強右衛門というところでしょうか。
戦時の緊迫した状況のせいか様々なドラマが生まれました。死後にはなりますがその勇気と働きが称賛され銅像を作られるまでになったとは驚きです。
帰りも路面電車に乗って熊本駅まで帰ってきました。
膨大な石垣や櫓を有する熊本城だけに地震の被害も膨大でまだまだ完全復旧には時間がかかるという印象です。時々訪れて応援していきたいと思います。
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