熊本歴史旅では西南戦争を巡る旅として久々に熊本城を訪れたいと思います。西南戦争時は熊本城で官軍が50日間も籠城し薩摩軍を城内に入れなかったため、城内には戦争の史跡と言うのはほとんど無いという事でしたが。ただ2016年4月の地震で大きな被害を受けた熊本城がどの程度復旧したかを自分の目で確認したく登城します。私は一応復興城主になっていますので気になっているのです。

熊本駅からは路面電車で行くのが便利かなと思います。熊本の市街はやはり城下町ということもあり曲がりが多く、路面電車も並行して走っているので慣れない人には車の運転はしんどいという印象です。

とにかく広い熊本城ですが現在は地震からの復興中ということでまだ見学できない場所も多く制限を受けますがそれは覚悟の上、お城を歩き回りたいと思います。

やや雨の中、加藤清正公からのお出迎えを受けました。

最初に川を渡る橋が御幸橋と名付けられています。明治35年に明治天皇が熊本に二度目の行幸をされた際に陸軍が坂を改修して傾斜をゆるやかにし新橋をかけて天皇の御馬車が通れるようにしたものです。

坪井川を堀代わりに使っているようです。

全長242メートルにもなる長塀が見えています。春には桜が咲き誇ります。

熊本城の堀はほとんどが埋め立てられた空堀ですが備前堀は熊本城で唯一の水堀です。現在は工事のために水が抜かれているようです。

 

飯田丸は地震で崩壊し隅石垣一本で耐え残っていたのが印象出来でした。今は解体されて石垣から積み直し工事が行われています。こうしてみるとかなり復旧工事中の箇所が多いなという印象です。

奉行丸の石垣がかなり規模大きく崩壊しているのが見えてきます。

崩落面が拡大しないようにモルタルで固めているとのことです。

専用通路を進むと目前に大きな数寄屋丸の櫓と石垣が崩壊しているのが見えてきました。

石垣が流失して建屋がやや沈下しているように見えますね。非常に危険です。

見学には専用通路が作られて行動制限されていますが高い位置から被害個所や復興状況を確認することができます。

城の南側の飯田丸への通路は複雑な枡形が組み合わされているのが専用通路から眺めることができて圧巻でした。

元々複数の櫓もあって複雑な構造になっていたことが良く分かります。一度迷い込んだら抜け出せなくなるような複雑な枡の組み合わせが集まっています。恐ろしい堅牢な防御システムです。

熊本城で有名な2種の石垣を見ることができます。右が加藤清正時代の石垣で左が細川時代のものです。

積み方も細川時代になって算木積みになっており石垣の進化も確認できます。

東竹の丸の櫓群です。多くの櫓が連なっているのが見えます。

この東竹の丸には重要文化財の10棟の櫓 (平櫓、不開門、五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓、源の進櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓) が建ち並んでいます。

良く見るとこの石垣もやや隅が膨らんでいる様に見えますね。地震の影響か不明ですが。

本丸御殿へ続く闇り通路の入口には井戸がありましたが熊本城には120カ所もあったらしいです。朝鮮で飢えと水不足に苦しんだ清正が籠城しても安心できるようにと考えられた城でした。

本丸御殿への入口は地下へ入っていくような感じです。

本丸御殿が石垣をまたぐ形で作られたためにこの珍しい地下通路ができたと考えられます。

闇り御門は熊本城の本丸御殿の正式な入口で藩主もこの闇り通路から階段を上がり本丸御殿に入っていたということです。当時は明かりも無く真っ暗であったそうです。

やっと天守前広場に出てきました。スケールのでかい美しく威厳がある大天守です。前に居るのはおもてなし隊の人たちで後でパフォーマンスで楽しませてくれました。

本丸御殿前にあるのは加藤清正お手植えの大イチョウの木と言われています。西南戦争時に火災で焼失しましたが新芽が出て大きく育ったということです。

清正の二代目が育って本当に良かったです。

本丸御殿も地震の影響で現在は内部非公開となっていて残念でした。

下から見上げても防御設備がしっかりした天守です。ただ実際の城は西南戦争の際に火災で焼失してしまいました。失火説や放火説など原因はいまだに諸説あります。

大天守と小天守の間の入口から登城します。おそらく来るのは3回目と思います。

地震対策として耐震ダンパーがやや目障りですが仕方ないですね。どんなに堅牢な城も地震には勝てないです。

大天守は地下1階地上6階コンクリート製の立派な作りです。

城内はきれいで清潔感あって昔の城のイメージはほとんど無いです。

この偉大な城を築城した偉大な加藤清正です。

天守内の展示が本当に素晴らしくじっくり読んでいくと初めて知る内容もあってたいへん勉強になります。小天守が忠利時代に後で追加された話など初めて知りました。

カリスマの清正が急死したことで一気に終わりを迎える肥後の加藤時代です。やはり徳川から見て秀吉色の強い加藤家は一掃の対象にならざるを得なかったのでしょう。

改易の理由は不明確ですが54万石の没収ということで家臣や領民はたいへんな騒ぎになっていたと想像します。

その後小倉城主の細川忠利が肥後に入り細川の時代が続きます。

西南戦争の熊本城の戦いでは政府軍が城に籠城する選択をします。薩摩軍は簡単に熊本城を攻略できると考えていたようですが実際は違っていました。

いろいろと籠城の苦労話が残っています。50日の籠城がもっと伸びることがあればかなり苦しい状況になったと思われます。

しかし結果的には籠城の選択肢は正しかったのではと思われます。

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