幕末の日本を牽引した藩は薩長土肥と呼ばれますがその“肥”の佐賀藩については未知の部分が多いです。実は最も軍備の近代化を積極的に進めたのは佐賀藩で当時の最先端を走っていたのですがあまり知られていないです。今回はその秘密を探りに佐賀へ向かいました。
JR佐賀駅に降り立ちました。まず目指す佐賀城は北へほぼ真っすぐ北へ車で10分です。
佐賀城の正面の駐車場から登城していきますがこのあたりはかつての二の丸にあたることが分かります。佐賀城は1611年に普請が完成しています。佐賀城はもともと龍造寺氏の城でしたが家臣の鍋島直茂、勝茂が実験を握り築城したとされます。
この二の丸に建つのは第10代藩主の鍋島閑叟(直正)公です。藩の財政再建を手始めに人材の育成や軍備の近代化を行い佐賀藩を明治維新の陰の立役者に主導しました。あの島津斉彬とも従兄弟どうしで互いに影響し合っていたようです。
佐賀藩は長崎の警備を福岡藩と一年交替で行っていたために他藩よりも海防や外国の動きに関する情報が入ってきたのが大きかったようで軍備の意識が高かったと言えます。
これから本丸に入っていきますが、現在鍋島直正によって建設された佐賀城本丸御殿を忠実に復元した博物館が公開中です。木造の復元建物としては日本最大規模で本丸御殿の復元としては日本で初めてとのこと。
まず見えてくる遺構は国の重要文化財にも指定されている鯱の門と続櫓です。
1874年の江藤新平による佐賀の乱の際に佐賀城は戦火に覆われましたがこの門は残りました。司馬遼太郎の歳月を読みましたが、江藤新平は非常に優秀な人で新政府の参議にもなっていますが結局地元の不平士族に担がれて反乱の首謀者になります。最後には西郷隆盛を頼りましたが結局は捕らえられて大久保によって梟首(さらし首)となってしまいます。
門にはその乱の時の弾痕らしき穴が残ります。
よく見ると何か所かに弾痕が残っているのが分かります。
城内から見るとなかなか威風堂々とした門構えですが佐賀の乱を間近で見てきた遺構です。
いきなり大砲が置かれていましたがこれはアメリカ製の24ポンドカノン砲です。当時の佐賀藩にはこんな大砲があちこちにあったのではと思われます。
いよいよ本丸御殿歴史館へ向かいます。
館内に入るとまずは45メートルも続く畳敷きの長い廊下に驚かされます。
ちょうどひな祭りのシーズンでしたので320畳にもなる大広間では子供たちが作成したひな人形が並べられ圧巻でした。
藩主の居間である御座間では鍋島閑叟が出迎えてくれます。閑叟の実物写真は残っているのだそうです。
佐賀藩が軍備のために大量に輸入していたと言われるエンフェールド銃です。
同じくスペンサー銃です。
佐賀藩が輸入して上野戦争や戊辰戦争で活躍したアームストロング砲のレプリカが展示されていました。小説か「かちがらす」によると佐賀藩では閑叟の熱心な指示で反射炉を築造し大砲の鋳造の試行錯誤が盛んにおこなわれていました。
当時の佐賀藩の技術力では製造することも可能であったと思われますがその実非は確認されていないとのことです。
本丸歴史館西門からの風景です。
当時は5重の天守が建っていたと古図には書かれていますが火災で焼失してしまったようです。
石垣に関してはあまり削ることなく原型を活かした石の積み方をしているようです。
天守台の石垣の算木積みは立派です。
天守台に登り着きました。礎石らしきものも見えますが今は何も無い状態です。
天守台から西門の辺りを見下ろしますが当時は門が存在していたような形状です。
天守台から見下ろした本丸御殿の姿です。
佐賀城の縄張りはほぼ正方形輪郭式の平城に見えますね。
鉄砲による攻撃を意識したためか堀は50メートルを超えてかなり幅が広い印象です。堀は石垣ではなく土塁のため樹木が茂ってきています。
土塁には犬走りというか人が歩ける歩幅に道が付いているのが特徴的です。
西御門橋に誰かの銅像が!? これは佐賀の七賢人で北海道開拓の父として知られる島義勇です。五稜郭の開城後に鍋島直正は開拓使初代長官に任じられ島義勇を蝦夷地に向かわせ北海道開拓に大きく貢献した次第です。北海道にも島義勇の銅像があるそうです。
島義勇の功績は漫画で読んで知っていました。北海道の開拓に尽力し現在の札幌の街の基を造ったことで有名ですね。ただこの人も江藤新平と共に大久保利通によって捕らえられ斬首されてしまいました。
なかなか注目されなかった佐賀藩について小説を読んで勉強しています。次回は佐賀の七賢人の功績をもう少し細かく探ってみたいと思います。(31)