京都から湖西線に乗って比叡山坂本駅に降り立ちます。ここは明智光秀が織田信長から許されて最初に坂本城を築城した場所で

す。この街を西に進むと比叡山に突き当たりますし、坂本に城を建てることで光秀が比叡山に睨みを効かせる役割であったと想像できます。

駅前には石積みの郷公園があります。この坂本の街は石工集団穴太衆の石積みが街に溢れます。

公園に釣鐘があるのが違和感ありますがこれは生源寺の破れ鐘とよばるものです。これは織田信長による比叡山焼き討ちのの際に急を告げるために鐘を打ち鳴らし続けたところひび割れてしまった鐘と言われています。

地図を見ただけで坂本駅から日吉大社までの間に多くの寺が並ぶ門前町であることが分かります。

坂本駅からは山に向かって登り坂ですがひたすら比叡山の登山口方向に西へ歩いて進みます。

日吉大社に続く道沿いは石積みの塀が続きます。この一帯は穴太衆による石積みが独特の景観を作り出しています。光秀が信長よりも築城の知識を持っていたと言われる所以もこの穴太衆の存在にあるようです。

この石積みの技術はその後の城の石垣の穴太積みとしてほぼ全国に広がっていきます。

街全体という訳ではないですがこういう石積みの光景が続くのは珍しいです。

小径に入ると両側が穴太積みの石垣が続く景観があちこちに存在します。

途中にあるのは京阪電車石山坂本線の比叡山坂本口駅です。

京阪電車の電車が停まっていました。これに乗ると石山寺まで行くことができます。

日吉大社の鳥居をくぐって進みます。

日吉大社の入り口までやって来ました。

参道にも石積みが続いています。

このような石積みの小径が多く独特の景観を見ることができます。

数ある寺社仏閣の参道が石積みで囲まれています。

日吉大社から約1キロですので西教寺まで歩いていくことにします。遠くにかすかに琵琶湖が見えています。

西教寺は織田信長が比叡山焼き討ちで焼失させた後光秀が復興したことから明智一族の菩提寺となり一族の墓が残っているということです。

確かに寺の前には「光秀公ゆかりの地」の看板が建っていました。今回の旅の締めくくりに光秀の墓参りを行ってから帰ることにします。

三浦綾子の小説「細川ガラシャ婦人」にもこの西教寺が登場するとのこと。実は私は三浦綾子さんの小説が好きで、特にこの「細川ガラシャ婦人」は何度も読み返したほど好きでガラシャの波乱万丈の人生が良く分かります。

総門を潜ってからの一直線の参道沿いには両側に塔頭が立ち並びます。

思ったよりも大きなお寺で本堂も立派で荘厳です。国の重要文化財に指定されています。

こちらが明智光秀とその一族の墓になります。山崎の合戦の後、光秀は一族と共にこちらに葬られてと伝わります。

西教寺と明智光秀との関係の深さが分かります。

光秀が山崎の合戦に敗れた後に辞世の句を残したと伝わります。

京都まで戻る湖西線の117系電車ですがとてもお洒落に見えます。

帰りは京都から三宮経由でフェリー乗り場に向かいます。JR三宮ではホームに転落装置が設置されていましたがこれは初めて見る装置です。東京のものとは違うので最初は戸惑ってしまいましたがドアが開くときにロープが上に迫り上がっていきます。

神戸港、六甲アイランド乗り場からフェリーさんふらわあに乗船します。

帰りも空いていましたのでプライベートベッドを取りましたが部屋(10人部屋?)に2人だけしかいませんでした。個室にテレビがあるなど快適ですが、手足を伸ばして大の字になれないので体が痛くなる感じがします。空いていれば船底のツーリスト部屋でも十分であると感じました。

19時ちょうどに神戸港を出港していきます。

さんふらわあの船の旅は特に揺れることもなく快適でした。瀬戸内海は波静かで揺れることはほとんど無いです。

フェリー内部は吹き抜けの空間が多いせいか広く明るく感じますね。

最近は個室などのプライバシーに配慮した部屋も増えていて家族や友人同士の団体旅行も楽しく船の旅ができるようになっています。

売店もロビーもあってのんびりとくつろいでいる人が多かったです。

夕食はレストランにてバイキングを頂きました。夜の航行中は食べて飲んでるしか楽しみが無いので美味しく頂きました。

神戸出港後1時間半後に明石海峡大橋の下を通過します。橋はライトアップされていて綺麗です。

とても良い旅ができました。時間があれば光秀が初めて築城した坂本城の跡へも行きたかったですが諦めました。世間で謀反人とのレッテルを貼られている光秀ですが特に悪人と言われるようなエピソードはあまり見当たらなかったです。やはり本能寺の変は織田信長のパワハラと横暴が招いたのだと思います。