北陸新幹線に湧く石川地方ですが古くは源平合戦の舞台のであり見所がたくさんあります。また義経・弁慶の歌舞伎の勧進帳でも有名です。厳しい冬になる前に特に小松市を中心とした歴史を踏みしめる旅にでました。(2015/11)
早速ですが小松市は歌舞伎の街ということであちこちに歌舞伎のモニュメントが見られます。特に安宅の関が近いということで弁慶像は良く目に着きます。空港に近い橋の欄干にも弁慶がにらみを効かせます。
欄干のもう一方には勧進帳の中で安宅の関関守として登場する富樫左衛門泰家です。義経本人であることを知りつつ弁慶の情に打たれ義経一行を無事に通過させてしまうというお馴染みの人物です。
街の中には勧進帳が溢れます。
まずは小松駅から歩いて約15分の多太神社に訪れます。ここに奉納されている斎藤實盛の兜(国の重要文化財)を見学したく昨日のうちに予約を入れました。
多太神社の宝物殿ですが普段は閉まっておりますが予約すれば見学することができます。 保存会の会長さんが丁寧にその由来から説明していただけてありがたいです。
手前の兜はレプリカですが奥の部屋に本物の兜が納められています。重要文化財ですし1000年の痛みが激しいようですのでなかなか外には出せないそうです。斎藤實盛は倶利加羅峠の合戦で敗北し加賀篠原まで敗走し木曽義仲軍と対峙しますが、實盛公はかって幼い義仲の命を救った恩人でありその後立派な武将となった義仲に討ちとられることになります。實盛は御年73才の老齢であったと云われます。 木曽義仲はその首を抱いて涙を流しここ多太神社に供養のためにその兜と脛当、矢根などを奉納したと伝わります。
この複雑な人間関係は相関図を作っていただいてかなり理解が深まります。敗走する平氏と追う源氏の間で敵と味方の苦しい立場の斎藤實盛の苦悩が分かります。
神社の参道には兜の主の斎藤實盛像が並びます。斎藤實盛は73歳、老木が最後に花を咲かせて散っていきました。
またこの兜が安置されて約500年の後1689年俳人松尾芭蕉が立ち寄り兜を拝観しています。その時に詠んだ句は「あなむざん甲の下のきりぎりす」。
その後の奥の細道では「むざんやな甲の下のきりぎりす」と書きかえられているとのことですが神社への奉納は前者であるとのこと、あの芭蕉も実際に兜を見て栄枯盛衰の情に涙したのではと思います。
鳥居の横にもしっかりお宝の兜の像が建っています。
さて最後の戦いとなった篠原古戦場を実際に訪れます。場所は小松から車で20分くらいでしょうか、片山津インターの近くになりますが、道路沿いに古戦場の碑が見えてきます。倶利伽羅から敗走した平家は實盛が最後の抵抗を見せますがここで若い手塚光盛に打ち取られることになり平家はさらに京へと敗走を重ねる訳です。
この実盛の兜に関する物語が簡潔に書かれた案内板がありましたので撮りました。分かりやすいですね。
①
②
③
④
この古戦場から少し離れますが斎藤實盛の亡骸祀った実盛塚が残ります。道路沿いに実盛塚の碑が建っています。
中に入りますとこんもりとした松の木が茂った松林が實盛塚です。亡骸はここに眠りますが兜などは現物が多太神社に奉納され今に伝わっているわけです。合掌。
せっかくなので篠原古戦場から近い片山津温泉に寄って帰ることにします。このガラス張りのモダンな建物が共同浴場の総湯です。440円で絶景を楽しみながら入浴することができます。
またちょうどりんご祭りの日とのことでした、特に意識しなかったのですが入って見ると浴槽に数十個のりんごが浮いていてびっくりしました。
浴場からは外の景色が楽しめます。
山門入ってすぐの金堂華王殿には大きな御本尊・11面千手観音が祀られています。一時期荒廃した時期もあったそうですが近世に入って加賀第三代藩主前田利常が再建に力を入れたために復興し現在に至っています。
那谷寺特有の大きな岩壁の奥に階段を登って岩屋本殿に参拝します。奥では岩窟をくぐり人の胎内の輪廻転生を体現できるなど古代からの自然の教えを伝えるお寺です。「生きとし生けるものは自然より生まれ自然に帰る」
本殿は間近で見ると京都の清水寺と同じ舞台造りですね。岩壁に造っていますのでどうしてもこういう造りになってしまうのでしょう。(重要文化財)
重要文化財の三重塔です。
境内では奇岩遊仙境の絶景が見れます。元々奇岩の岩窟の中に創建した寺院ということで他では見れない景観を楽しめます。実際に歩いて登って回る事もできるとのこと。
松尾芭蕉も山中温泉に滞在した後にこの那谷寺を参拝して一句読んでいます。「石山の石より白し秋の風」。当然この寺の奇岩に圧倒されたものと思われます。