その①から

太宰府天満宮から西へ移動し大宰府政庁周辺を散策します。

バス通りから少し入りますが大宰府政庁からすぐのところにある坂本八幡宮を訪ねます。ここが新元号「令和」が生まれた場所と盛んに取り上げられていますね。実際にその辺りの当時の雰囲気を味わってみたいと思います。

このこんもりとした木立の一帯が坂本八幡宮の様です。予想していたよりも小さな神社の様です。

確かに令和の幟が立っており坂本八幡宮と分かります。

やはりどこにでもありそうな小さな神社ですが、およそ1300年前このあたりに大伴旅人の邸宅があってその庭で開かれた歌会で令和の元になった梅花の詩が読まれたと言われています。なんとものどかで風流な生活をしていたことでしょう。

境内には大伴旅人の歌碑が立っています。自分が日々の生活で感じたままの気持ちを歌の残していますので当時の生活を偲ぶことができますね。

坂本八幡宮の縁起が書かれていました。

太宰府は昔から梅が有名でこの一帯も梅やら桜やらで春には楽園のような雰囲気であったと想像できます。まさにこの土地から万葉集の令和の歌も読まれたのでしょう。

木立の中にも梅花の碑が建っていました。詩の作者である大弐紀ノ卿は聖武天皇が東宮時代の侍講であった人物で、梅花の宴時の最上席でいわば開会の言葉を読まれたことになります。春が来たら梅を愛でて楽しく過ごしましょうと言った意味の歌碑です。

 

天平2年(730年)正月十三日に大伴旅人邸に招かれた31人と梅花の宴が開かれたその際の開会の歌であったと書かれています。皆が集まりこれから始まる梅花の宴のわくわくした1300年前の高揚感が伝わります。

神社から歩いてすぐの広い大空間の大宰府政庁跡を訪れます。1300年の昔ここには西の都、「大君の遠の朝廷」である大宰府が置かれていた史跡を見てとれます。

当時の太宰府には大和朝廷によって九州の統治と日本の西の防御と外国との交渉の窓口となる役所が置かれていました。政庁はその跡でありその規模は我々が教科書で習う平安京や平城京に次ぐような大規模なものであったことが分かります。

発掘調査によりその役所の建物の大きな礎石が出土しており当時を偲ばせてくれます。

恐らくは政庁に向けてその中央に大路が通っていたのだと思われます。

太宰府の歴史の資料を学びに太宰府展示館に寄ってみます。

太宰府政庁の復元イメージの模型がありました。1300年の昔に確かにここに都があったことが分かります。太宰府市は現在福岡の1都市ですが、大和朝廷の時代は九州の中心としてアジアとの窓口として重要機能していたんですね。

そして梅花の宴の様子を再現したジオラマが博多人形で再現されています。正確には32人が集まって輪になって歌を詠み合ったということでしょう。春の日に梅を楽しんで酒を飲む当時の人々の風流ぶりが今に伝わります。

あまり知られていないですが水城跡も実勢に見学してもらいたいですね。大陸からの侵攻に備えて大宰府を守るために当時の人が築いた堤防の跡です。いかに大宰府が当時も重要拠点であったかが分かります。

太宰府というとどうしても大宰府天満宮が有名ですがこの広い一帯全てが史跡と言えますので時間をかけて歩いてみて当時の雰囲気も味わってみてほしいです。さらに時間があれば大野城、岩屋城、水城などにも足を伸ばせたらと思います。

西鉄二日市の駅のホームには太宰府仕様にラッピングされた電車が止まっていました。これで旅をするなんてテンションが上がりますね。

しかも列車のヘッドマークは新元号の「令和」になっていました。お洒落ですね。

西鉄電車の乗る機会はあまり無いですがホームの案内板はとても見易かったです。

久し振りなので帰りに西鉄天神駅の回りを少し散策してみました。新天町です。

博多の夏と言えば山笠ですが毎年7月1日から7月15日まで行われます。7月1日からフィナーレとなる7月15日の追い山に向けて、ほぼ毎日数多くの神事が執り行われます。既に山車(飾り山)が展示されて祭りの雰囲気を盛り上げてくれています。

飾りについての解説が書かれていまして飾りの表現がよく分かります。

移動中に駅弁をいただきましたが、折尾のかしわめし(東筑軒)がシンプルで好きですね。

昔から変わらぬ味です。(770円)

今回訪問した史跡は古代日本の日本遺産「西の都」として登録されている地域の一部です。大陸との交流や大和朝廷の統治という視点から見てみると博多湾からこの太宰府に通じる一帯はすべて貴重な歴史遺産と思いますしその歴史的意義も大きいと思います。大昔から大陸との交流や時には侵攻を受けてきたこの地域の歴史を肌で感じられる遺産が多く残っています。また機会を見つけて残りの遺産を見て回りたいと思っています。(26)

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