数年振りに長崎を仕事で訪問しました。時間ができましたので坂本竜馬のゆかりの地を中心に異国情緒を味わいに、坂の街をぶらぶらと散策したいと思います。(2013)

まずは長崎駅の前です。西の終着駅ですが、駅を一歩出ると異国情緒がいっぱいです。

まずはバスに乗って風頭公園の坂本竜馬像を見に行きます。

解説の看板がでていましたが、坂本龍馬は勝海舟と共に佐賀関経由で長崎に来ていました。坂本龍馬も長崎の発展を見て大いに刺激を受けたことでしょう。

1865年に坂本龍馬が創立した日本最初の商社と言われる亀山社中です。現在は記念館となっています。狭い急な坂の途中に入口がありました。 昔は窯元であったということです。

展示物は多くはありませんが、当時の雰囲気を想像することはできます。ここら界隈を闊歩して歩いていたんだろうなと想います。

月琴もありますが龍馬の妻・龍も月琴を弾いていたいたと言われます。

坂本龍馬が着ていたと言われる紋服です。推定するに龍馬は170センチ以上はあったと言われます。

亀山社中の構成員の名前が出ています。近藤長次郎は密航を企てて自刃してしまう気の毒な印象ですね。

坂本さんのブーツも長崎の街と海を眺めています。

龍馬のブーツについての解説の看板が出ていました。

龍馬通りと呼ばれる亀山社中のある辺りは急な坂が多く山の中に隠れているような感じです。

さて、亀山社中から歩いてすぐの眼鏡橋です。日本初の石造りアーチ橋で1960年に国の重要文化財に指定されました。
眼鏡橋を実際に渡ってみました。
これも有名な出島の正面からの全景です。当時は正面の門(位置は違うらしいですが)から向こうに行くことは許されなかったようです。
1641年からペリー来航後の1859年  までの約200年間、対オランダ  貿易が行われていました。

出島のミニュチュアが展示されていましたが、当時の全景がよく分かります。なぜ扇形をしているかどいうと、長崎に新しく作る島の形について、当時の将軍である徳川家光に伺いを立てたところ、自らの扇を示し、見本にするように言ったという説があるそうです。

いまだに侍が闊歩していました。

坂本竜馬が幕府により派遣された勝海舟に同行した際に宿泊した福済寺です。1864年オランダ、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国の下関砲撃中止の交渉のため、幕府から長崎出張の命を受けた勝海舟は、海軍塾の塾頭である坂本龍馬を連れ立って長崎を訪れました。

福済寺の案内です。

次に聖福寺です。「いろは丸事件」の交渉で会談の舞台となったお寺です。

ちなみに広島県の鞆の浦にはいろは丸展示館というのがあります。

坂本龍馬の足跡が残ります。

街の街灯もオシャレな装飾です。

そして現在の法務局には竜馬の時代の支援者の小曾根氏の邸宅跡がありました。何といっても近藤長次郎が切腹したことでも有名です。

案内板が建っています。

その②に続く。(25)

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