今回名古屋の名鉄の知立に仕事で行く機会がありました。この近くには有名な桶狭間合戦の跡地があるということで寄ってみたいと思います。もちろん訪れるのは初めてです。

桶狭間の合戦の地にはいくつかの説があるのだそうですが今回はネットで調べて名鉄有松駅から近い桶狭間公園を目指して行きます。名鉄有松駅です。

何も看板らしきものが無かったので不安でしたが駅の改札を出ると桶狭間古戦場の看板があって少しホッとしました。

場所が不安でしたが駅からバスで桶狭間の地名のあるあたりで降りてみます。大きな池の向こうによく見ると桶狭間古戦場の文字が辛うじて見えます。このあたりが古戦場だったのでしょうか。

看板を目指して歩いて行くと確かにありました。桶狭間古戦場公園です。

有名な桶狭間の合戦ですが、1560年2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川義元と、少数の尾張の織田信長の戦いで織田信長の奇襲が成功した歴史上の大番狂わせと言われます。

案内板には合戦の両軍の配置図も書かれています。

この公園自体はどこにもありそうな小さな公園でしたが園内には合戦に言い伝えのある史跡がありますので見て回るのも一興です。触れると熱病に罹るとの伝承が残るねずの木もあります。

敗退した今川義元はこの地で首を取られたのでしょう。首を洗ったと言われる泉が伝わります。

首洗いは少々まゆつばですが桶狭間の呼び名の起源がなるほどと思います。

この公園の廻りにも合戦の史跡らしき場所がありますので可能な限り歩いて回ります。織田信長が一気に天下統一に名乗りを上げた記念すべきパワースポットです。

ここは今川義元の家臣の瀬名氏俊が陣地を敷いた場所です。

公園から歩いて5分には合戦にゆかりのある長福寺がありますので寄ってみます。

この長福寺は今川義元の供養寺として知られています。

堂内には今川義元の木像も安置されていますらしいですが今回拝むことはできませんでした。

この境内にも首実検の場所がありました。桶狭間の戦いの後、信長は境内で義元やその武将の首検証をしたと言われております。供養塔もありますので丁寧に拝みました。

また寺の奥には弁天池がありますが江戸時代には血刀濯ぎの池と呼ばれていたそうです。少し鳥肌が立つような空気を感じます。

この近くにこれだけ史跡が集中していますのでやはりここが桶狭間の古戦場に違いないと確信しました。

バス通りにありますが義元の本陣の設営を終えた瀬名氏俊隊が軍議を開いたといわれる戦評の松です。

また怪しげな名前の地蔵池の近くの住宅街の中に七つ塚と呼ばれる塚(墓)が存在します。

本当に分かり辛いところにありますが夜には来れない怖い所ですね。

七つ塚の由緒が書かれていますが要は桶狭間の戦死者を埋葬した七つの塚の跡ということでしょう。ここもよく拝んですぐに引き返しました。

地蔵池の周りの木々は紅葉してきれいですがここが古戦場と思うと少し微妙な気がします。

また近くの住宅街の中に今川義元の陣地跡碑がありました。

おけはざま山と呼ばれる今川軍の陣跡です。合戦当日の雷雨が信長軍に味方したようです。

名鉄有松駅に戻って来ました。名古屋まで帰るとします。

桶狭間と言われてもなかなか場所が頭の中で特定できなかったのですが今回初めて実際に訪問してみて史跡や回りの雰囲気などから桶狭間の合戦をイメージすることができました。まさにこの地から信長の天下布武が始まり秀吉、家康と近世につながっていくのですね。

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