ぶっちゃけ版、日本と中国の仏教の需要についての一考察 ラスト
前回からかなり時間が経ってしまいましたが、ラストの回をお届けします。
中国では、仏教と一緒に入ってきた輪廻の思想が、仏教の需要に一役買っていました。
日本では、仏教の成仏の思想が仏教の需要に関わっていたと考えています。
古来(今も?)、日本では不幸に死んだ人は怨霊になって災いをなすと考えられていました。
悪いことが起きる ⇒怨霊のせいだ! ⇒まつる ⇒ 鎮まる ⇒良かった!
でも、また台風が来たり、雷が落ちたり、病気が流行ったり、収穫が悪かったり……、その度に「また怨霊の仕業だ!」って感じで大騒ぎしていたら、どうなるか。
いつまで、まつりを続ければよいのか?
こんな物騒なものに、この世にいてもらっては非常に困ります。
そんな中に入ってきたのが、仏教の成仏、そして中国で仏教と混ざった先祖崇拝、特に『追善供養』だと考えています。
追善供養とは、亡くなった人に対する供養。
今では儀式化・定型化されていますけど、『亡くなった人』に対する、って部分がキモです。
例えば、日本のお盆の根拠になっているとされる『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』では、釈尊の高弟の母親が餓鬼道に落ちてしまい、供養を通じて母を助け出す姿が描かれています。
① 『怨霊』は、不幸な状況で亡くなった人が化けるもの。
② 『怨霊』、悪いことをするので、まつりで鎮めなければならない
③ 仏教で、死者を供養する方法があるらしいぞ
④ 仏教の目的は、『成仏』。悟りを開いて執着を断ち切り、彼岸(あっち側)にいくらしい。
⑤ 仏になったら、たたらないンじゃないか?
⑦ これは、便利だ! 『怨霊』を供養したら、この世に戻ってこない!
おまけに、仏になったら守ってくれるかも!
こんな流れが、日本における仏教の需要の基盤になっているのではないでしょうか?
政治は、「まつりごと」。特に古代では、政治と祭祀の結びつきは非常に強かったとされます(卑弥呼とか)。
古代、僧侶は国家の役人で、学問と国家の鎮護を祈る(おそらく『怨霊』にも関わる)のが仕事でした。
日本では、仏教と神道が混合し、日本の神が仏教の修行をするという意見もあります。
これは、実は、『この世の神』を『彼岸に送る』という必要性があったのかもしれません。
日本の神は、『Something Great(なんか、すごいヤツ)』であると言われますが、『怨霊』なども本質的には同じものではないでしょうか?
日本人は、不安に関わる遺伝子が世界で一番多いという話もあります。
死者を恐れてまつり続けるあり様に、そのあたりも関係しているのかもしれません。
でも、死者を殺すことは不可能です。
災害などがある度に、恐れ続け、まつり続ける。
その中で、不安はどんどんと大きくなる。
仏教を通じて死者を『成仏』させ、あっち側に送ることで、『怨霊』システムの悪循環を断ち切ることが求められたのではないかと思います。
中二病的には、『怨霊殺し』、『神殺し』、『死者の再殺』とでも言うべき?
不安が生み出す悪循環からの解放、そのための『追善供養』と『成仏』。
私は、日本における仏教の需要にこのような背景があったのではないかと考えています。
聖書を読む限り、ユダヤ教・キリスト教のゴッドは、めちゃくちゃ祟ります。
日本で信者が伸びないのも、この辺りが関係しているのかもしれません。