第14回「大坂」4/10、第15回「秀吉」 | 定めなき浮世にて候へば一日先は知らざる事に候

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良い事・悪い事「一つの事象が原因で今日とは全く違う明日を迎える」なんてことを感じてます
「常識(定説・通説)」に対して???と思うことが多い昨今、自らの思いを記することもあります

そんな事を感じながら日常生活の中での思うところを記していきます

いよいよ、大坂の地に足を踏み入れた源次郎

その経緯について。

天正壬午の乱(天正10年)後から、羽柴秀吉と友好関係にあった上杉景勝は、天正11年(1584年)6月に同盟関係となりました。

その頃、真田昌幸上杉への臣従を申し入れています。
が、実際に受け入れられたのは、第一次上田合戦開戦前の天正13年(1585年)7月の事です。
その時、源次郎(当時は弁丸)が人質となりました。

織田信雄秀吉の関係悪化に端を発し、家康秀吉の関係も悪化し、秀吉vs家康・信雄の天正13年(1585年)4月の小牧・長久手の戦いが起きました。

昌幸は、第一次上田合戦中に秀吉に対し援助を請う書状を送っています。
それに対して秀吉は返書(10月17日付)しました。内容はその身を安堵するというもの。
これにより秀吉との確実なつながりができました。
その裏には景勝の働きもあったのではないかと思います。

石川教正出奔後、秀吉の11月19日付の書状で、正月に家康を成敗するので要請次第出陣するように、と昌幸に通知してきました。また上洛要請もあったと思われます。

7月に関白に任官、12月に豊臣姓を下賜され、天下人へと歩む秀吉

昌幸はそんな秀吉の狙いどころやその器を見極めるためにも源次郎秀吉のもとに人質として送り込んだと伝わっています。

源次郎秀吉への人質の過程には諸説あり、第一次上田合戦終結後、昌幸景勝の下にいた源次郎を呼び戻し秀吉の下へ送り出したとか、天正14年(1586年)6月の景勝上洛に帯同したとか、させたとか・・・その他にも・・・。


この辺りの事が、ドラマで描かれました。

上田城下での争いが一段落した後、景勝のもとへ帰した源次郎でしたが、を亡くした悲しみに耽っていた。

そんな中、秀吉から全国の大名や諸将に対し上洛要請があった。源次郎景勝上洛に共する事となった。

上田城において昌幸徳川の動きに対し警戒している中、真田信尹による調略によって徳川重臣中の重臣である石川教正秀吉に出奔という事態が起きました。
これによって第一次上田合戦は終結することになりました。

この石川教正の出奔は謎に満ちています。真意がわかっていません。
また、真田信尹は天正12年(1584年)から家康に仕えています。

まぁ、昌幸が何もせずに何か策を立てていたのではと思いますが、あそこまで入り込んでの調略であったのかはちょっとどうかなぁと思いました。しかし、教正うん!には笑いました。

石田三成・加藤清正、そして秀吉、茶々・大蔵卿局も登場。
何か世界観が大きく変る、源次郎を取り巻く環境状況が一変する節が垣間見れました。
そして物語事態も大きく変わっていくのだなぁと思いました。

最近の大河の構成を踏んでいます。



今まで見たこともない世界に足を踏み入れた源次郎

大谷吉継・千利休等も登場し、いよいよ秀吉の世界が展開されていきます。

昌幸・景勝共にあそこまで秀吉に対して半信半疑というか警戒心があったのかと思うが。

大坂城秀吉に拝謁した景勝(天正14年1586年6月14日)。その際に真田への肩入れを禁じられ苦悩する景勝。そして、お茶席の場面。お茶で表現した景勝臣従。とても良い表現でした。

景勝が思うほど源次郎は気にはしていなかったのでしょう、景勝判断

もう一人、苦悩するのは源三郎源次郎大坂へ行って以来自身の在り方に悩んでいる。しかし、安泰の世の源三郎をみればその才を如何なく発揮した事はご承知の通り。
そんなところを、昌幸の口からそんなところを発せたところも良かったです。

豊臣家中、豊臣家に巻き込まれていく源次郎

これからの人間模様が楽しみです。

第14回「大坂」第15回「秀吉」の感想でした。