『我は、おばさん』岡田育
なんと!強烈なタイトルの本ですよね。
どんな話かというと、『ぼくの伯父さん』の映画のおじさんが好きで、おじさんなら『孤独のグルメ』『おっさんずラブ』みたいに主人公になれる。
この「おじさんのオンナ版として生きる」と言うとそれは「『オバサン』でしょ」と言われる。…でもその言葉のもつイメージは違う。
著者はまだ40代なりたて。親戚のオバサンとは違った年長者の女性たちが、積極的にオバサンと名乗れる社会とはどんなものか。みたいなことを、映画や小説や実例などいろんな人を例に出して書かれた話です。
読んでてこれは論文か?と思ったけど、カルチャーエッセイだそうで…(最後の対談でジェーン・スーにも論文?と問われている(笑))
作者は、善きおばさんになりたい。それは
フランスではマダムと呼ばれるようになることが大人の女の証。でも、そのマダムと呼ばれるようなものではない。上世代から受け継がれる正の遺産は有り難く頂戴しつつも、負の連鎖は自分の代で断ち切る。目の前の苦渋を味わってる少女に経験値と打たれ強さを持って「ここはおばさんたちに任せな!」と重荷を肩代わりして「辛抱」から解放してやるような存在になりたい。
善きおばさんは、『次世代に向いて生きている』こと。頼まれてもいないのに若者の世話を焼く、それが未来をよくすると信じている。
『シンデレラ』『マレフィセント』『更級日記』『若草物語』『哀しい予感』『82年生まれ、キム・ジヨン』などに出てくる、保護すべき年少者と、親ではなくよその子の面倒を看るおばさん。親戚の面倒を看る場合もあるし、たまたま出会った子たちをみる場合もある。今例に出しただけで映画も小説も現代も古典も出てくる中での善きおばさんの例をあげられている。
そうして作者は「おばさんになるのは嫌だ」と怯えている若い女の子たちが少しでも減るといいという。
色々例も楽しくて面白い本でした。ちょっと論文みたいだけど。
そして私は今日、百貨店の中で「○ョーシンならすぐ行けるやん」と母親らしき人に言われて小さな子供の声で「○ョーシン…」と言いながら後ろに近づいて来た子を振り返ると、まだ2年生になったばかりくらいの男の子と、2、3歳の女の子。まるで初めてのおつかいレベルの歩き方で、下の子はその辺のハンドバッグを触り出す始末。○ョーシンは百貨と隣接するショッピングセンターの一番端にあって、百貨店の中のイメージからは到達しにくいところ。
ということで、このおばさん(私)は声をかけて、百貨店を一緒に出て、ショッピングセンターの地図を見せて、この道をまっすぐ行ったつきあたりの方にあるからね。じゃあね!と言って送りだしました。お礼を言って二人手をつないで通路をまっすぐ走っていきましたとさ。