ご訪問 にふぇーでーびる(ありがとうございます)
このBlogは沖縄を知ってもらうを目指しています
ぐすーよー(皆さん)コロナが収束するまで ちばり(頑張り)ましょーね
★ 最新の会見はこちら
2026年の首里城再建へ
沖縄は頑張っています❣
今週の本題はこちらから
※ 写真、動画は全てインターネットから引用です。
今回は琉球王国が沖縄県になるまでのお話をしてみようと思います。
琉球王国がどのように日本へ併合されていったのか激動の琉球史後半の250年間をザザザと書いてみます。琉球王国の歴史の中でも知っておいてほしい重要な部分ですね。
あちゃーの(明日の)テストに出るかもよー(笑)。
・今思えば、きっかけは「薩摩侵略」
450年続いた琉球王国(1429年建国)は中国大陸の明国や清国と冊封制度を通じて貿易を行い中国大陸の「海の拠点」の一つとして栄えました。実は琉球王国が「中間貿易」で栄えたのは、王国前期がピークで徐々に衰退、後期の王国は財政難に陥りながらも、さとうきびやウコン、ヤコウガイや硫黄等を輸出する事で何とか国を支えていました。そんな中、財政を非常に圧迫した1つの大きな原因に「薩摩侵略」がありました。百戦錬磨の島津軍に対して450年まともな戦をしていない琉球軍はある程度の流行りの武器があったにも関わらず、あっという間にやられてしまい、首里城を制圧させてしまいます。これにより琉球は薩摩の支配下となるのです。
・「薩摩藩」の支配
「支配」と呼ぶと刺激が強すぎですが、実際には薩摩藩は琉球王国を残し、結果的にですが、鎖国(琉球侵略の3年後に鎖国政策が開始)の網をかいくぐり海外と貿易を自由にできる状態にしました。琉球国内の政治にはあまり口を挟まず、「在番奉行=ざいばんぶぎょう」を派遣して反逆等を企てる者を監視したり、貿易の税の徴収を管理する程度でした。しかし事実上の属国化で、貿易をすれば理不尽な額の税の徴収をされるなど、独立国なのに薩摩藩に上納金を治めるような仕組みになっていました。更に衰退したと言えども明国との朝貢制度は維持されており、琉球国王が代わる度に冊封使(島くとぅば=さっぷーし)と呼ばれる200~500人程度の明国皇帝の使節団が来琉し長い時は半年間も滞在、これに対して当時の琉球王は当然国賓として「おもてなし」をしなくてはいけません。その為には莫大な資金が必要でした。しかも王国後期は国王が短命で、冊封使が頻繁に来琉したのです。財政難の琉球は薩摩藩からお金を借りてこの時期を乗り切ったと一説では言われています。
在番奉行所跡地石碑
当時の地図から(港の近くに奉行所が設置されています)
冊封使の行列
・琉球文化の構築
琉球民族が自国のアイデンティティを強く意識し始めたのは、薩摩侵略のタイミングと思われます。初めて国を解体させられる恐怖に局面した時に「このままではまずい」と感じた人々が動き出します。ここで起きた うねり が「琉球の中国化」と呼ばれる現象でした。正確には「琉球文化の成立を自国民が意識的に行った」と表現した方がよいと思います。今まで明国から取り込んだ文化を強く国内に意識させることで侵略者「薩摩藩」から王国の主権を守る事がねらいでした。(もともと薩摩の思惑は貿易による税の徴収にあったと思います。琉球側はここで判断ミスを起こしていますが、これが琉球王国を象徴する文化の構築に重大な影響を及ぼしました。)侵略者達の文化と違い、独立国「琉球王国」の民である誇りとプライドを根付かせていったのです。この時にできた琉球文化を現代の私達は見聞きしています。実際、琉球王国初期は仏教王国ですし、国の象徴は「龍」ではなく「鳳凰」でした。
紅型に使用されている伝統の柄「鳳凰」
琉球文化を凝縮したような写真(当時は写真のような笑顔はなく必死だったと思います)
・琉球王国の致命傷は「明治維新」
坂本龍馬が主役の名言「日本の夜明けぜよ」でお馴染みの「明治維新」、公には日本の近代化を掲げ倒幕に成功、新政府を樹立し開国、外国の眩しく見えた技術を惜しみなく取り入れ日本を急成長させたと言われています。しかし琉球にとってはこの「明治維新」のお陰で後の「琉球処分(1879年)」の早期決行につながりました。当時は自国と他国の国境を決めるのがブームで、「どこまでが自国なのかはっきりさせる作業」が加速しました。この考え方は遅かれ早かれ起こる考え方だったと思いますが、外国から貪欲に技術や文化を吸収していた日本はアジアでも早目にこのブームに巡り合うのです。
坂本龍馬(まさか明治維新が琉球王国にこんな影響を与えるとは思っていなかったと思います)
・琉球処分の方法
まずは1871年に清国台湾に漂流した琉球人が現地の人に殺害された事件をきっかけに清国に対して「琉球は250年日本の薩摩藩の従属国で事実上日本である」と主張しその権利を勝ち取ります。次に琉球王国に対して「今日から琉球王国は琉球藩になります(1872年)。」と宣言します。当時の琉球王国は日本の廃藩置県(1871年)の動きもありコロコロ変わる呼び名に対して違和感が無く、「日本側の琉球の呼び方が変わっただけ」と軽い感じで考えていました。日本史を勉強した現代の私達からすればこれがどれだけ琉球にとってまずい事になるのか容易に想像できますが、当時の琉球王国には明治政府のしたたかな戦略を見抜くことが出来ませんでした。それから7年かけて着々と併合の準備を整え1879年3月11日総勢600名の日本政府軍が首里城に侵攻、琉球国王の前で、清国との朝貢関係撤廃を指示すると同時に沖縄県の設置を宣言、琉球王家は(琉球)国外追放となり琉球王国は日本に併合されました。
琉球処分時に、首里城の歓會門前に立つ日本政府軍
・まとめ
今の沖縄で見聞きしている「琉球文化」は、窮地に追い込まれた当時の琉球国民達が必死に整えた文化と、「薩摩藩」という、新しい「支配者」に対抗するため「明国の文化をわざと色濃く残した」ものが合体したものです。不幸にも王国消滅に次ぐ2番目の緊急事態時に出来上がった文化を私達は目の当たりにしています。色んな意味で複雑ですが、結果的には世界に自慢できるステキな文化だと感じています。2大国の狭間で翻弄されながら育まれてきた琉球文化を大切にしながら、今いる沖縄の人々がそれを受け継ぎ更に新しい息吹を吹き込んで琉球文化はドンドン大きくなっています。来沖した際には魅力たっぷりの沖縄をどうぞ思い存分楽しんで下さいね。
この後も沖縄に平和は訪れません。皆さんご存知の通り太平洋戦争の地上戦やアメリカゆー(アメリカ統治時代)へ突入します。現在の沖縄にとってダークな歴史ばかりじゃないですが、地上戦を初め、おおむね悲惨な歴史を歩み続けます。そして今は米軍基地問題で賛成、反対で2分されています。「沖縄の本当の平和はいつ訪れるのやら」と県民皆でそんな事を慮りながら敵、味方に分かれて毎回選挙で戦う日々です。。。誰かに「ウルトラC」で解決してほしいわーってのが本音です。💦 っま、これも定め、沖縄県民はこれからも頑張りますので応援よろしくお願いします(o*。_。)oペコッ
沖縄の事考えるとわくわくするさー🛫
ぐすーよー(皆さん)、方言あらん(方言では無くて)「しまくとぅば(島言葉)」で認識ゆたしくうにげーさびら(お願いします)。
最後にこちらで癒されて下さい(o^―^o)ニコ
Nanaironote & 宮城夏鈴さん じょーとーうたーうたいんさびら(ステキな歌声ですよ)。海とワンちゃん🐶
ハラミちゃん×OKINAWAはいかが
うちなーんちゅ(沖縄の人)はハラミちゃんとモンパチが大好きです
今週も じゅんに(誠に) にふぇーでーびたん(ありがとうございました)。
沖縄プロ野球キャンプ2022情報はこちらから
我が故郷名護(なご=75)市は日本ハムファイターズのキャンプ地の一つです。
ファイターズのHPはこちらから
私たち 琉装している琉球民族 やいびん(=です) じゅん(本当)に情報収集してから来沖 しちくぃみそーれ(して下さい) ちっぴるー(コロナウイルス)は うっとぅるさんどー(怖いですよー) ガクガク((( ;゚Д゚)))ブルブル
沖縄のコロナ最新情報はこちらから
コロナかなと思ったら
※対応は各自治体で違いがあります。
-- 米軍基地問題 --
地位協定の見直しを行い、辺野古の新基地建設を止めると
9415億円の税金の節約が可能になります。
コロナで困っている国民にお金を配る財源になるさー
先週行われた私の故郷名護市長選の裏で何が行われているか知りたくないですか
根深い基地問題の真相はこちらの記事で確認できます。
始めから税金を大量投入するつもりだった辺野古の新基地建設Σ(・ω・ノ)ノ!
155億円全部日本国民の税金です
・良く分かる沖縄の米軍基地問題
・沖縄だけじゃない米軍基地問題
新宿駅の真上で低空飛行、日本のヘリなら違法行為です。
・東京新聞 木更津のオスプレイ騒音問題
「バーチャル沖縄」の風景( `ー´)ノ
clickで関連記事へ
・コロナが収束したら沖縄おいでー 楽しいよぉ
Blogのススメ
沖縄県民の皆さんもそうじゃない方も Blog始めませんか
※ 下の画像をクリックっでBlogの作り方紹介サイトに行きます
※ Blogを始める方はコチラ (Ameba Top) から
シーサーとキジムナーより