ジョー・ペピトーン(ヤクルト・アトムズ) | 魑魅魍魎のブログ

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とりあえず、いろいろ書いてます。
特にこれといった特徴はありません…。

本名:ジョセフ・ペピトーン。
ニューヨーク生まれのイタリア系アメリカ人である。

ヤクルトで長く通訳を務めてきた中島国章氏が「プロ野球翻訳奮闘記」という本を書いているが、
それによると、彼が南海ホークス(現:ソフトバンク・ホークス)から、
ヤクルト・アトムズ(当時)に移って最初に担当した外国人選手…
それがよりにもよって、このペピトーンであったという。 
お察しします(笑)

私も何度か通訳の仕事をしたことはあるが…
こんな奴の通訳だけは絶対にしたくないとつくづく思う。

とにかく、このペピートン…大リーグでの実績は相当のもので、
こんな選手が海を渡ってくることに、関係者の誰もが驚いたことだろう。

なにせ名門ヤンキースに入団すると、打率こそ二割そこそこながら、
持ち前の長打力で、あのミッキー・マントル、ロジャー・マリスという、伝説の名選手たちと肩を並べてクリーンアップの一角を担っていた。

例えて言うなら…「末次です」と言われても、「誰?」となるが、
「V9時代、3番王、4番長嶋…そして5番が私です」となれば、
誰もが「おぉぉ!!すげぇぇ~!!」となるようなものだ。
(妙な例えになってしまったが…)

大リーグ通算は219本塁打。
そして3度もアメリカンリーグのベストナインに選ばれている。

しかし…当然、「何でこんな大物を大リーグは手放したのか?」という疑問が残る。
それは、彼が超問題児だったからだ。

もちろん、球団もある程度それを把握してはいたようだ。
しかし、大リーグ関係者の「戦力としては大きなプラスになるが、人間低には奔放な性格で欠点も多く、日本の野球になじめるかは大きな疑問がある」という言葉が、はからずも現実のものとなってしまう。

何せ、このペピトーン…
来日した頃には、まるわかりのカツラ(しかもセミロングの…)を被り、
妖しげな口ひげを蓄え、どこぞのヒッピーみたいな風貌だったが、
若い頃は、女性ファンに囲まれる日々で、そのファンを部屋に連れ込んでは遊び呆けていたという伝説を持っていた。
さらには、酒とギャンブルをこよなく愛し、
大リーグでも遅刻なんて当たり前…時には試合すら無断欠勤するという男だったのである。

とにかく、そんなこんなで日本にやってきたペピトーン。
前述の通訳:中島氏も、「あのペピトーンの通訳ができるんなんて!」と、胸を躍らせていたという。

さらには、あの名将:三原脩監督を迎えての3年目のシーズンだったこともあり、
否応にもこの元スーパー大リーガーへの期待は高まった。

一説によると、ペピトーン自身、日本に来て「心機一転」頑張ろうという気持ちはあったようだ。
はじめのうちは熱心に練習にも取り組んでいたようである。
なにせ、当時としては破格の5000万円以上の年俸を出して獲得した選手…これで活躍してもらわねば困る。
ところが、天性の問題児は、やはりその期待を見事に裏切った。

その始まりは「ペピトーン・デー」と銘打った、
神宮デビュー戦ダブルヘッダー。
外野席を女性に無料解放した、球団の思い切りぶりも素晴らしいが、
そこで第一試合目を4打席ゼロ安打で終えると、
「頭が痛い」と、2試合目を欠場したペピトーンもまた、
別の意味で素晴らしい(笑)
しかも、その頭痛の理由が、「マンションの玄関が日本人サイズで小さく、出入りするたびに頭をぶつけたから」というものだったという…。

さらに7月に入ると、元夫人との離婚と娘の扶養料調停を理由に、勝手に帰国。
8月に再来日すると、アキレス腱炎でわず7試合に出場したのみで、9月にはまた無断で帰国してしまう。
(その間、ディスコで元気に踊っていたという目撃談もある)

一年目の成績は14試合出場で打率1割代、本塁打は1で、打点は2。
珍しくグランドに現れれば、スパイクを忘れるという…少年野球でもありえないようなボケをかまし、罰金制裁をくらっても気にも留めない。

実は、「放任主義」とも言われる三原監督だが、
あくまでもそれはグランド外の私生活の部分のみであって、
例えば、前日どれだけ遊び歩いたとしても咎めはしないが、
グランドに入って酒臭い息をしていた選手は容赦なく放り出した。
あくまでも、私生活には口を出さないが、
グランドでは「放任」は許さないというプロフェッショナルでもあった。

ところがペピトーンは、双方で問題児ぶりを発揮してくれたわけで、
これなら普通は一年で解雇だ。
しかし、契約は2年で結んでしまったし、
これほどの大物を引っ張ってきたという球団側のプライドもあり、結局残留させてしまうのである。

これで心入れ替えて…とはならなかったところが、
ペピトーンの「史上最悪の外国人選手」と言われる所以である。

待てど暮らせど、キャンプにペピトーンは姿を見せない。
2月にようやく来日の確約を取り付けるが、それでも来日しない。

ついに3月15日までに来日するように最後通牒を突きつけるのだが…
返ってきたのは、 「昨年来日したときの超過荷物料金と、犬の輸送費を払ってくれ」というものだった。
さすがに、これで温厚なヤクルト(?)の堪忍袋の緒も切れた。

球団は契約不履行として任意引退とすることを決定。
これで、ようやく問題児とも縁が切れた…と思うかもしれないが、
ペピトーンはそんなに甘くない(笑)

実は、ペピートンは夫人との離婚裁判で慰謝料を請求されるが、
そこで、「アメリカで働いて慰謝料を払いたいが、ヤクルトが自分を『任意引退』としているので、メジャー復帰もできない。だから慰謝料も払えない」と発言したのだ。
そこで裁判所は、アメリカのコミッショナーに改善を要求…。
アメリカ側のコミッショナーはヤクルト側に事情を説明…。
それを受けてヤクルトはペピトーンを『自由契約』とすることを決める。

ペピトーンとしては、何とか慰謝料の支払いを引き伸ばすための方便だったのかもしれない。
しかし、これで完全に逃げ道は絶たれた。

結局、ペピトーンはその後、メジャー復帰もままならず、泥沼の人生を歩んでゆくことになる。
85年にはコカイン不法所持で実刑判決を喰らい、
出所したと思えば拳銃不法所持で再逮捕。
92年に婦女暴行障害罪、95年は飲酒運転による交通事故で逮捕。
元々、「万引き、恐喝、傷害…殺し以外は何でもやった」と嘯くだけあって、野球をやめてからも、そのトラブルメーカーぶりだけは生涯健在だった。

しかし、このペピトーンのお陰…というか、何と言うか…
とにかく、二人の選手がヤクルト球団史に足跡を残すこととなる。

一人は、ペピトーンの代わりに獲得したロジャー。
彼は前年、太平洋クラブ・ライオンズ(現:西武ライオンズ)で、ケガもあって全く活躍できていなかった。
それを、専門医の診察を受けさせ、足を故障は完治していると判断させるとすぐさま獲得。
打率こそは低かったが、毎年20本の本塁打は計算できるという、
チームでは貴重はホームランバッターとして活躍した。

そして、ペピトーンの一件で日米間の野球関係悪化を最も憂慮していたというドジャースのオマリー会長が選手移譲の申し入れを出してきたのが、“優勝請負人”マニエルだった。

「史上最悪の外国人選手」と言われたペピトーンも、意外なところで副産物を産んでくれていたのである。
(マニエルに関しては後述)