昭和20年8月6日の朝、轟音と東の空に立ち上ったキノコ雲を見た。
「広島に何か大きな爆弾が落ちたらしい」
上司の指示で、広島の電電公社の様子を見てこいという事になり、約50Kmの道程を自転車で行くことになった。
夕方には、広島市内を流れる複数の川の手前の橋のたもとに着いたが、それより前に進むことは叶わなかった。なぜなら、その先の町は未だ強大な炎に包まれ、その灼熱は何人の侵入も許さなかった。
丸1日、橋の傍で足止めを余儀なくされたのち、広島市街に足を踏み入れた。
自転車は役に立たなかった。
道は夥しい数の残骸と死体に埋め尽くされていたからだ。
仕方なく、鉄の自転車を担ぎ、それらをまたぎながら進んだ。
生きている人びとは皆口々に水をくれと懇願した。時折、死んでいると思われた焼死体に急に足を掴まれたこともあったという。
まだ歩ける人も半袖からしたの露出した皮膚は全て焼け剥がれ、手の爪のところで留まってまるでお化けのように皮をぶら下げて歩いていく。
広島の中心部にある電電公社にたどり着いたが、それはもはや唯の壁が残されているだけで、そこがかつての同僚たちの職場であったという痕跡さえ残されてはいなかった。
その壁の傍でまた一昼夜を過ごす。
広島は、幾本もの川が洲を作る川の街である。灼熱に追われた人々は次々と川に飛び込みそのまま川の中で力尽きた。川に溢れた死体は一度は海に流された、しかし満潮になるとその死体はまた川を上り、潮の満ち干にあわせ行ったり来たりした。
救援隊が集まりはじめると、死体は市内のあちこちに山積みされ野焼きにされた。
夜になると、骨のリンが燃え、ボゥっと青い人魂が町のあちこちであがった。

子供の時から、事あるごとに聞かされた父の原爆の話です。
恐らく父は、世界で一番、一度に数多くの死を目撃した人間でしょう。
この壮絶な経験ののち、父の人生は極めて平凡なものとなった。
真面目な会社で真面目なサラリーマンとして、その職業人生を終えた。
そんな父を反面教師として育った私は、平凡ではない人生を求めた。
其の私自身も50を過ぎた。平凡からは程遠い人生となったという意味においては希望を具現化したように思う。

だが、平凡と非凡、どちらの人生が良いのかなど決して分からない。
そもそも比べるべきものではないのかも知れない。
皮肉にも私は、父とは逆に、後半の人生で父の目撃した死の数十倍もの悲劇を知る立場となった。

私は、父には生き証人として、原爆の物語を世に伝える仕事があったように思う。
あの年代の人には何故か、語らないことが美学であるような気質がある。
語るのが良いのか、語らないのが良いのか、実際、どちらが良いのか分からない。
生前によく書き物をしていたから、これから遺品整理で何か見つかるかも知れない。

ここ1か月は、もはや、自分で起き上がることも出来なかった。
それは間違いなく痛みを抑えるための麻薬の為である。
麻薬で時々、妄想めいたことを書き記した。

そのことを医師に告げると、医師はそんなときの為にとチーム医療の別の医師を紹介した。
私の正体を知らないその医師は、名刺を差し出し、自分が精神科医であることを名乗った。
貴方に何が出来るのか?
と問うとその精神科医は言った。
「良い薬があります。」
その薬の名前を聞くと、なんと「セレネース」だと。
「何?妄想が出てるからセレネース?暴れてもいないのに?」

痛みを取ることと引き換えに麻薬の使用に私は同意した。
しかし、何と引き換えにセレネースなのだ?
何かの為であったとしても、それは決して患者の為ではない。
いつもは一番穏やかに見えていたはずの患者家族(私)が豹変し、大学病院のため大勢でぞろぞろついて回っていた大勢の研修医たちや看護師たち全員が凍りついた。

このエピソードを除けば私は、最後をみとってくれたこの病院の医師やスタッフに心から感謝している。
インフォームドコンセントもしっかりしていたし、ホスピタリティも素晴らしかった。

遺体を運ぶ際に看護師さんが言った。
皆でアミダクジで、1番~4番、カスを決める遊びをしたと。
手間のかかる患者だと思われていたと思うが、この話には救われた。

ついに父は逝ってしまったが、かつての悲しみほどの衝撃はない。
心の準備もあったし、
ここ数か月の眠れないほどの痛みが消えたことも
なにより85歳と2か月の大往生である。