▼学校とは何?(効率)=(支配)×(競争)なのか?▼考える自由は抵抗というカタチを表わす? | フィーリングメッセージ

フィーリングメッセージ

伝えたいメッセージを紹介します











もし企業内の信頼度が低く道徳的権威が欠如すると

ボス中心のワンマン組織ができる。

リーダ-はなんでもわかっていてすべてを決定する

一一一一「俺のやり方に従えないなら出てけ」

という考え方がまん延する。

共有されるビジョンや価値観がないと、

代わってルールが支配する。

「自分の仕事以外のことは心配するな。言われたことだけ、

ルールに従ってやっていればいい。

考えるのは俺の仕事だ。」

組織が整っていないと、

何事にも効率が求められるようになる。

機械にも、

政策にも、

人間にも、

すべてに。

効率性がすべてという考え方が支配的になる











~~第8の習慣 「効果」から「偉大」へ/スティーブン・R・コヴィー (著) P.171~一部抜粋~
ハートフルフィーリングマイラブ☆444+31☆

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いじめについて、ボクが考えることは、教育というものが強制という見えないカタチで、子供の圧力になってしまう場合があると考えるからです。

先日、深夜に韓国での徴兵制度による訓練の映像や徴兵制度に拒否している人のドキュメント番組が放送されていました。そこで、日本の今の教育問題と重なることが起っているように感じ『強制』というキーワードが出てきました。自分の国を守るために、あえてどんな状況にも冷静に対応できるような苦しいことをやる。その訓練は日常では考えられないようなもの。それを見ると確かに日本は、自由があり、この国に生まれたことを有り難く感じますが、それと同じような思想(正しいことだから強制してでもする必要がある)が日本の教育にあるのかどうかと考えるとかなり無理があるように思いますが、でも、教育の流れに乗ることは、何かそうすることで安心感を得ようという心理、(効率的に)最善を尽くすということが、どこか、そこに埋もれているものを見えなくさせているように思います。


どんなに正しいことでも、強制しては意味がない・・・。


そう考えると、今、一部の人にとっては、教育が、(効率性を求めるあまり支配的になる)足の引っ張りあいにすぎないように感じているのではないか?

効率を求めすぎて、しまった結果、何か(信頼?)を見失ってしまったように感じます。

それは、自分らしさや、自分を知る時間、自分を認める時間、それが本当に必要なことなのか・・・兎に角、その時だけで判断するには、教育は詰め込みすぎているように思います。だからこそ、そのトンネルを抜けてそういうことを感じる時間と、新たな解釈ができるまで意味を問い続けながら生き続けなければならないように感じます。

社会が与える基準、親が与える基準、そして友人間での見えない基準によって、自分の心の基準が決まってくるんだと思う。クラスという存在自体、強制的に決められた枠のように感じるのではないでしょうか?オレもそこで自分の基準で判断したい、そんな衝動を起こさせるのではないか?そこで、いじめとは、自分よりも基準が低いと思われる人を探し出すシステムを作るのかもしれない。つまり、さまざまな基準を与えられることに苦しむのが今の世の中の徴候ではないだろうか?

特に子供の頃は、そこにハマってしまうと自分が変わるか、耐えるか、逃げるかしなければならないが、その教育の正当化、(人から信頼されなければ生きられない、自分を表現できないというような思い込み)から、その選択肢が見えなくなってしまうように感じます。

水谷修先生が、ほめることの大切さをある番組で説いていたけど、ほめることは自分を感じる上で大切な事だと思います。叱ることが多いというのは、ある意味で効率、競争を意識した考え方のような気がします。