**自分について

昨日の怒りの続きを少し。。

納税している(働いている)ことがデフォルト(当然)扱いにされ、あれができない、これができない、料理をしない、家でぐうたらしている、休日はゴルフばかりで家庭サービスをしない、etc。。 と指摘されては世のおとうさん方にしてみればたまらない、なぜ、最も重要なところで結果を出しているのに休日にまで不愉快な気分にさせられなければいけないのか、という話です。

お金のこと、はなぜ隠蔽されるのか、という違和感があります。
昔、糸井重里さんは「お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ 」という本を出していました。読んではいないのですが。。タイトルだけで「なるほど」と思わせるものがありました。


私が育った世代が考える「おとうさん」のイメージといえば、休みの日、家ではぐうたらしていたりお酒を飲んでいたりするが、アウトドアになると「頼もしい」人に変身し、(たとえば、「マキ割り」とかそういうイメージです)それによって威厳を保っている、という感じです。

ふだんはぐうたらしていても、サバイバルの術はなぜかよく知っているという。。

なぜそのような「野生」とか、「力持ち」ばかり期待されていたのでしょうか?
世のお父さん方が本領発揮できるのはアウトドアや力仕事だけなのでしょうか?

「おとうさん」が本当に期待されていたのは、今も昔も「お金」ではなかったですか?
大地震が起こったときのアウトドア、サバイバルの術よりもまず、日常をやりくりするための「お金」が大事なのでは? それどころか、大地震が起こったときですら、この資本主義社会ではサバイバルの術よりもまず「お金」なのでは?

と、今自分がオトナになると、切にそう思うのです。
なぜ、「休みの日はぐうたらしている」が強調されて、平日の狩猟(つまり、お金を稼ぐことです)の行為が完全に「なかったもの」とされてしまっていたのか。。

それが、日本人のお金というものにたいするアンビバレントな考え方の一端を示すものだったのではないか、というのは、今になるとわかります。


自分は田舎育ちですが、そだったのは半端な地方都市の郊外で、また、そのせいで「アウトドア」というものを毛嫌いしていたので、いわゆる典型的な「屋外でのナイフの使い方」「火のおこし方」などは全く知りません。料理もできません。
実際のサバイバルでは私は相当役に立たないでしょう。
ですが、この歳になって「だからナンなの」と胸を張って言えます。その理由は、前回も書きましたが、私は「納税」しているからです。


納税額により、違う色(違う識別)のIDカードを発行してもらって、享受できる民間サービスに格差をつけてもらいたい、と本気で思っているのです。
災害時であってもそうです。
ふだん、たくさん納税して、国のため、自治体のために貢献している人間が、災害時に食料供給などの場面で優先されてはいけませんか?

そのぐらいしなければ、世の中のおとうさんたちは報われないし、モチベーションが上がらないと思いますね。

そのIDカードの識別は、必ずしも納税額のみに依存しなくともよいのです。社会的貢献度を測る尺度が他にあるのであれば、それでよいのです。
ただし、納税額という尺度がもっともわかりやすい、というのは明確なのです。
それが色別のカード化されれば、「お金」という概念が隠蔽されずに済みます。

国民総背番号制を密かに進めるのであれば、また、格差社会が押し広まってゆくのであれば、いっそのことそのぐらいやってほしいものです。