**人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

「人間が、もっとも幸せな状態というのは、生活の大部分が「快」でも「不快」でもなくて、たまに「快」があるような、そんな状態である、と思います。」と大風呂敷を拡げて。。

なぜ、生活の大部分が「快」の状態よりも、生活の大部分が「ふつー」で、たまに「快」があるような状態のほうが幸福なのか、の話で。

マァ話はちょっと脱線するかもしれないのですが、
日常をいかにストレスなきものにするか、(つまり、「ふつー」の状態にする)に腐心することが大事だと思います。
そのためには、余計なプライドを持たない。身の程をわきまえるのも大事です。
日常を「無」にして「快」を待つ。「無」のほうが「快」を呼び込みやすいような気がするんですよ。根拠はないのですが。。

そして、「不快」は「爽快」を呼びやすいような気がする、というのもわかる。
でも、大きく振れすぎだと思うのです。大きくマイナスにふれて、その後プラスにふれる。そういうジェットコースターのような生活は「幸せ」とはいえない。

かといって、日常で常に少しずつストレスをためている状況でたまに「快」があっても、それはそれでつまらない。
だから、日常を「無」にして「快」を待つべきなのではないか、と。

日常が「無」であれば「爽快」がほしいとは思わないのでしょうね。「爽快」は「不快」に振れる危険信号だということをわかってしまってるから。