「ココロのDIY(Do It Yourself)」を誰もやろうとしていません。

 自分の「ココロ」は自分で強化して、きたるべき「災害」(流行のコトバを援用すれば「PTSD」になりかねない外的要因)に備えなければならないはずです。

 ところが、実際問題「災害」が身にふりかかってきたときに、立ち向かうこともなく、防御する姿勢もみせずに完全に自分のココロをゆだねてしまい、ホントに精神的疾患になってしまうヒトが多いのです。

 なぜなら、それが流行りだから。

 わざと「ココロ」のガードを緩くして、名のとおった精神的病と診断されたくてたまらないわけです。

 致命的にならぬよう、コントロールは抜かりなく…

 ある程度ショッキングなイベントを、実は常に待ち焦がれている。

 大病を経験し、精神的だろうが肉体的だろうが、二度と「病気」というものになりたくないと強く願っている自分から見ると、腹立たしいをカンタンに通り越してしまうぐらいの様(ザマ)です。

 なぜここまで神経症が大衆化したか。それは、名前が「精神病」でなくなったからです。「精神病」という病名がなくなってから、いっきにファッションとなってゆきました。

 ムカシは、「精神病」と判定されたらそれは「キチ○イ」であり、そこから社会復帰するのはほぼ、絶望的でした。

 ですが今は、キチ○イどころか(悪いことに)それは一種の「トレンド」であり、皆がハレモノに触るように扱ってくれて、しかも3ヶ月ぐらいゆうゆうと仕事を休むことができます。

 神経症による身体的なダメージはわずかばかりのものです。そのわずかなダメージで、数ヶ月、責任が発生するすべての仕事を放棄して逃避できるわけですから、これは使わない手はありません。

 神経症は数ヶ月休めるのに、激務によりホントに倒れたとしてもせいぜい1週間です。しかも、復帰しても周りの目は冷ややかです。「仕事に穴をあけやがって!」と。身体的に、致命的な後遺症が残るかもしれないのに…

 そして、神経症は「クセ」になることができます。ちょっとキツいことがあれば「再発した!」とまた休み…(ただし、「キツい」かどうかは自己判断)

 一度その甘い汁を吸ってしまうと、完全復帰は不可能です。

 今の世の中というのは、「このまま激務が続いたら、倒れる!」という叫びよりも、「このままやりたくない(向いてない)仕事を続けたら、欝になる!」という叫びのほうがインパクトがあります。不思議ですね。

 ひとムカシ前の大衆には、ぱっと見、まっとうな人間とキチ○イしかいませんでした。
 かつてはストレスコントロールという概念すらなかったために、キチ○イと後ろ指さされてしまうようなヒトは自身を制御するすべすら知らず、とことんまでいってしまったのだと思います。

 そして、その中間層は世間的に存在が認められていませんでした。

 
 最近は、昨今流行の「ガンバらなくてもいいんだよ」という風潮を、自分の都合のいいように解釈するヒトたちが激増しており…

 そういうヒトたちは、「ガンバらなくてもいい」を、ココロをノーガードにしておいてもよい、と勝手に解釈します。

 それは、真冬の風呂上りに髪の毛をぬらしたまま外を散歩するようなものです。

 
 ココロをノーガードにしておけば、ちょっとした外的要因によりオモシロいように「神経症」になってゆきます。

 なぜならば、最近は「傷ついた!」という自己申告だけで「神経症」と診断してくれるからです。

 神経症が世に認知されつつある、という追い風もあり、僕の住む東京は、まっとうとキチ○イの間の「中間層」が激増し、世の中を大手を振って歩くようになり、非常に危うい世の中になってしまいました。

 「ココロのケア」ではないのです。そもそも何か起きた後にケアする、という考え方が根本から間違っていて、大事なのは予防です。

 「ココロ」を鋼鉄のように、ガードを堅くしておかなければならないのです。

 それは、誰でもできることです。できるのだけど、やろうとしない。

 なぜやろうとしないか、というと、予防してしまうと「神経症」という現実逃避の手段がなくなってしまうからです。

 そういった「神経症なりたがり」のヒトたちは、思春期の頃に、ふらふらと夜の繁華街に繰り出してしまう若者たちと似ているのではないでしょうか。

 若者がノーガードで「夜の世界」に入り込めば、あっという間に「悪」に手を染めてしまうことになります。

 ですが、若者はあわよくば、致命傷にならない範囲で(いつか「生還」する前提で)「悪」を垣間見たいからこそ、ノーガードで夜の繁華街に繰り出すわけです。

 その結果、「夜の世界」にどっぷり浸かってしまい、生還してこないヒトもいます。

 あるいは致命的な痛手を負って生還し、その後の人生に多大な悪影響を及ぼすヒトもたくさんいます。
 
 もちろん、まんまと夜の世界の想い出を携えて無事生還し、「いやああの頃は若気の至りでさ…」と、未だに飲み屋でのハナシのネタにしているヒトもいるでしょう。


 その「若気の至り」を、「神経症なりたがり」のヒトたちは、オトナになってもまだまだやり足りないのでしょうか。

 あるいは、彼らは青春の時代を特に何事もなく通過してしまったがために、一生懸命生きてきたヒトであれば必ずココロに抱えているはずの「若気の至り」すら持っていないのでしょうか。

 だからオトナになってもあらゆる手段で、なりふりかまわずそれを欲しがるのかもしれません。