たとえば、小学校中学校とかで、コドモが集団に適応できなくて(まあこれは、不登校にまでは至らないけどっていう前提で)、そのために親が呼び出されたり家庭訪問があって先生に注意されたりしたら。。
なんか、今の親たちって逆ギレするんだろうね。
「でもウチの子は絵はうまいはず」とか「算数ができる」とかあげくのはてには「だからどーした! アンタらが何とかしてよ!」的な。。
学校ってさ、確かに義務教育ではあるにせよ、集団生活に適応できるようコドモを仕込んでください、ってお願いして預けるところじゃないのかなあ。集団への適応、すなわち、集団生活になったときに「他人に迷惑をかけない」人材になる、ってのは大前提の中の大前提としてあるわけよ。
それはagreeなんだろ? 親としても。
それどころか最近は、「ウチじゃしつけらんないから学校にお願いします」ぐらいの勢いなんだろ? 親としての責任も放棄して。
であれば、仮に自分のコドモが集団に適応できない兆候がみられたら、まず、それを「個性」と判断するのはものすごく間違ってるよね。それは、「矯正すべき欠点」だよ。
たとえば集団行動のとき群れから意図的にそれたりする(「自分はヒトとは違うんだ」という偽個性の考えの萌芽がみられる)のは、集団には大迷惑かけてんだってば。
それを家庭で気付かせないといけない、とゼッタイ思うけどなあ。
学校も、そういう、集団からそれる行動を取ることに対してもっとキビしくあるべきだと思うけど。
それがよくいわれる「ゆとり教育の失敗」ってやつにつながったんだろうね。
で、お受験とか学校の選択は、またその上の段階での話でしょ。集団生活への適応ってのが大前提としてあって、さらに、キリスト教なのか仏教なのか、とか、教育方針云々とかあるわけで。
特に私立なんざ、方針で「しつけ」を前面に打ち出してる学校多いぜ。しつけというのはすなわち集団生活への適合のことだよ。要は「カタにはめる」ことだ(最近の自分の中でマイブームのコトバ)。
私立人気ってことは、コドモをカタにはめんの大歓迎ってことだよ。「もう学級崩壊のニュースなんてウンザリ」ってな。
「お受験」で、私立学校に期待してんのって、ゼッタイ学力向上じゃねーよな。「カタにはめる」ほうだよね。
なんか、今の親たちって逆ギレするんだろうね。
「でもウチの子は絵はうまいはず」とか「算数ができる」とかあげくのはてには「だからどーした! アンタらが何とかしてよ!」的な。。
学校ってさ、確かに義務教育ではあるにせよ、集団生活に適応できるようコドモを仕込んでください、ってお願いして預けるところじゃないのかなあ。集団への適応、すなわち、集団生活になったときに「他人に迷惑をかけない」人材になる、ってのは大前提の中の大前提としてあるわけよ。
それはagreeなんだろ? 親としても。
それどころか最近は、「ウチじゃしつけらんないから学校にお願いします」ぐらいの勢いなんだろ? 親としての責任も放棄して。
であれば、仮に自分のコドモが集団に適応できない兆候がみられたら、まず、それを「個性」と判断するのはものすごく間違ってるよね。それは、「矯正すべき欠点」だよ。
たとえば集団行動のとき群れから意図的にそれたりする(「自分はヒトとは違うんだ」という偽個性の考えの萌芽がみられる)のは、集団には大迷惑かけてんだってば。
それを家庭で気付かせないといけない、とゼッタイ思うけどなあ。
学校も、そういう、集団からそれる行動を取ることに対してもっとキビしくあるべきだと思うけど。
それがよくいわれる「ゆとり教育の失敗」ってやつにつながったんだろうね。
で、お受験とか学校の選択は、またその上の段階での話でしょ。集団生活への適応ってのが大前提としてあって、さらに、キリスト教なのか仏教なのか、とか、教育方針云々とかあるわけで。
特に私立なんざ、方針で「しつけ」を前面に打ち出してる学校多いぜ。しつけというのはすなわち集団生活への適合のことだよ。要は「カタにはめる」ことだ(最近の自分の中でマイブームのコトバ)。
私立人気ってことは、コドモをカタにはめんの大歓迎ってことだよ。「もう学級崩壊のニュースなんてウンザリ」ってな。
「お受験」で、私立学校に期待してんのって、ゼッタイ学力向上じゃねーよな。「カタにはめる」ほうだよね。