昔から感じていて、類が友を呼んでしまっているうちに、傷を塩混じりの何かで舐め合っているうちに気づいた気になっていることがある。


この世の中、定型の社会が発達するなかで分かりやすい非定型に対する優しさはぎこちないながらも進んできたのだと思う。


まずは物理的なバリアフリー。もっとできることはいっぱいある気はするし、気兼ねなくたくさんの荷物を持って小旅行的な散歩ができるマチが増えるといいな、と思っている。


昔、母が某大手新聞の先鋭的な記事に珍しく本気で呆れ返るレベルでブチ切れて抗議の電話を入れたことがある。


それも「◯面のこの記事を書いた人と少し話がしたい」という依頼の仕方で。


カラダが大きくただ強くしか見えないことの苦しみは大きくありたいものにはわからないのだと思う。


なんだかみんなうちの家族は今やいい具合に規格外なので大丈夫なのだけど、昔はそうじゃなかった。強くならざるを得ずに強くなったのに、そしたら最初から強かったような誤解を受ける。


試練を何とか自力で潜り抜けてこれた私たちは、もしかしたら潜在的には強かったのかもしれない。


だけど、最初から必ず強くならなきゃいけなかった訳ではない。


どうしようもない数々の危機のなかで自分を守る為には強くならざるを得ず、泣く泣く、しかし泣くことすら許されずに強くなったに過ぎない。


過程が大事と綺麗事を言う人に限って、結局は結果しか気に留めない人が多い。思うような効果が即座に出ないと、この投資はコスト以外の何物でもなかったとそこだけ即断する。そして、その効果とやらもコストやらも分かりやすい定式化して出てくる数字であったり、それを導きやすいパンダであろう。


強くないはずなのに強くなろうとして、三本の矢にもならない強みをいったん見せると、潜在的には強い人扱い。


なんだかな。


【たぶん、続く】