先日、類義語の違いについて考えてみました。

そのことを書こうと思ったのは、ある気づきがあったからです。

 

わたしは今年に入ってからずっと≪願いの叶え方≫といったカテゴリーの話ばっかり書いてきました。潜在意識の分野にまで広がりました。

【潜在意識を使って願いを叶えたい】と思って勉強したりチャレンジしたりしてる人は沢山います。

そんな書籍や動画やブログも多数存在しています。

スピリチュアルというカテゴリーにされたりもしています。

わたしが超古代歴史の本を探していた時、中には≪オカルト≫という分類をされている時があってギョッとしましたw

歴史分類じゃないんかいっ!ガーンと。

 

スピリチュアル関連本は、そんな時たいていお隣の戸棚に並んでいたりしました。

占いなんかもそうですし、神社めぐり本なんかもごっちゃになっていたりしました。

ひっそりと、どっちかというと密かな存在として。

しかし今、かなり表舞台に堂々と出て来た感じがあります。

地下アイドルがメジャーデビューした感じですw

流れ星に願掛けするときも、その願いは人には口外しない方がいいとかいう言い伝えがあったりしますよね。つまり、願いは大っぴらにしないのが一種のお約束なのかも。

向上心とか達成感などは称賛されるワードなのに、平和とか愛とか豊かさなどは、美しい言葉なのに口に出すと途端に胡散臭くなってしまうのは何故なのでしょう?

面と向かって語るという部類ではないと感じてしまいます。

 

人間は皆、心の平安を求めているし、愛されたいし、豊かになりたいと誰しも思っています。

愛されたくない人はいないし、ずっと貧乏が最高だぜ!という人は少なくないですか。

ちやほやではなくて、信じてくれる存在ですよ。欲しいよね。

貧乏ですよ。清貧とは違いますよ。嫌ですよね、貧乏。。。

 

だから、人は願うんです。

平和を、愛を、豊かさを。

でね、ここで大変繊細な言葉の問題が立ちはだかるわけなんです。

 

それが【願う】という言葉です。

 

【願う】と【望む】

類義語みたいです。

でも、わたしには決定的に違う感覚があります。

【願う】には、『今現在はそれを持っていない』という事実(幻想)が付きまとうんです。

人は欲しいものが手に入っていなくて、それが欲しいと思うから【願う】んです。

もう持っているならあらためて願いません。

 

まさに「幸せになれますように」とか「年収が上がりますように」とかがそれです。

「今は十分幸せじゃないよ」「今は満足いく年収じゃないよ」って思いがあるから、変えたくて願うんです。

それのどこが悪い?って感じじゃないですか。

 

問題なのは、「今現在に不満を抱いている」という心です。

不満だから変えたいんです。まだ持っていないと思っているから。

 

変えたいと思って努力したりします。普通はそうします。

愚痴だけを言ってて「あー、変わんないなぁ」なんて言うのは問題外です。

ずんの飯尾さんのネタだよ、そりゃw

 

しかし、努力してるのに変わってくれないことがあるんです。

言い方を変えれば、努力しても100%変わってくれるとは限らない。

 

どうして?努力したら変わってくれるんじゃないの?

頑張ったらその分、見返りがくるんじゃないの?

効果が表れるんじゃないの?

なぜ変わってくれないの?

もう何か月も願っているのに、どうして叶わないの?

 

一生懸命勉強してきたのに、どうして試験当日に体調が悪くなったの?

どうして太刀打ちできないようなライバルが同じレギュラーにいるの?

もっともっと頑張ればいいの?

頑張りが足りないから願いは叶わないの?

運が悪かったなんて言葉で片付けられていい問題なの?

 

「いま見える現実は、全てあなたが作り上げたものです」

「不足に思える現象は全部あなたの幻想です」

潜在意識界でよく聞く言葉です。

そんな風に言われれば言われるほど、苦しみは増すばかりです。

 

表向きの願望は、実は別の何かを味わうための手段だというんです。

「年収が増えて欲しい」のは、豊かさが欲しいから。

「恋人が欲しい」のは、愛情を感じたいから。

「レギュラーになりたい」のは、人に認めて欲しいから。

 

「よし、わかった。

豊かさね。よしよし。

じゃあ、周りから親切にされるチャンスを増やしてやろうじゃないか」

「おいおいカミサマ。

聞いてましたか?わたしは年収で豊かさを感じたいって言ったんですよ~」

 

『お金が増えない』という事象しか目に入ってないと、周りから親切にされる機会が知らず知らずのうちに増えてることには気が付けない。

そして、ずっと【願い】続けちゃう。お金の事象が目に見えるまで。

 

「いやいや、欲しいのはお金なんですよ。」

「ああ、お金か。なんでお金がそんなに欲しいのかね?」

「お金があったら、将来の心配しなくてよくなるじゃないですか」

「ほうほう、つまり安心感が欲しいとそういうことだね」

 

「他にも、最新のスマホとかもお金があったら悩まず買えるじゃないですか」

「なんで最新のスマホが欲しいんだね」

「だって、機能が充実して便利だし、最新式ってやはりカッコいいじゃないですか」

「ほうほう、つまり利便性と満足感が欲しいってことだね」

 

言い換えてくる。たくみに言い換えてくるw

 

あなたの不足感はつまりここだねって。

 

【願う】と【望む】の違いは何か?と検索したら、ビックリすることに回答されていました。

『【願う】は誰か人やカミサマに望みをかなえてくださいと思う事です。

【望む】は自分自身の心の中でそうなるといいな~と思っている状態の事です。』

ほうほう、そういう解釈ですか。

 

こういうのもありました。

『希望したことが現実のものになるといい、掲げた目的が実現するように祈ることを「願う」といいます。
もう一方の「望む」はこうなるといいと理想を掲げて
希望を伝えるという意味があります。
自らの理想をいい方向に実現したいと考えるといったところが違う点です。』

なるほどなるほど。

 

どれが正解とか、これが正解かはここでは問いません。

 

ただ、わたしにはやはり、【願う】というワードには「〇〇が今ないから」という不足感とセットに思えて、どうにも座りが悪いのです。

願えば願うほど、「無いよ、無いよ」と訴えているようなイメージがぬぐい切れません。

圧し掛かるプレッシャーと欠乏感に無駄に苦しみます。

なので「望む世界はもうここにあるよ。あとは受け取る準備をするだけ」という宣言が心の負担を軽くしてくれます。

「願う世界」ではなくて、「望む世界」。

類義語に見えて、わたしには全然受け取り方が変わります。