さて、先日の続きになります。

 

インドの地図を見てみます。

タミル語は、南インドですね。

ドラヴィダ語族に含まれる言語はタミル語以外にもたくさんあります。

テルグ語・カンナダ語・マラヤーラム語・トゥル語・トーダ語、コータ語などとWikipediaには書かれていました。

など】という事は、細かく挙げれば他にもまだあるってことですよね。。。

すごいな、インド。

国土面積は広く、人口が多いし、民族も多種多様。

 

さて、まずは大野晋氏の説を知らないと、それが【闇に葬られた!】と言われてもピーンときませんので、こちらを読んでみました。

子ども向けに書かれた本?なのか、とても易しく書かれていてびっくりしました。

こういうのって、とっつきにくい印象あるので、興味はあれど途中で放り出すということがわたしは割とあるんですけど・・・w

これまでも、色んな学者の方々が日本に近い国の言語から、類似性があるものを探してきた歴史があります。

アイヌ語はもちろん、朝鮮語・台湾語・モンゴル語など。

国土は近いけど、関係性を見ると同じ祖先を持ってると、証明できるようなことは見つからなかったらしい。

中国からは漢字が沢山入って来て、それから日本の文字が出来たという説がありますけど、文法的な事は全然違うしね。

単語の対応・発音の法則の共通項が「これだ!」というものが見つからない。

 

さらに範囲を広げて日本の南へ。

メラネシア語・ポリネシア語・ネクロネシア語・・・同一祖先のものだという証明が出来ない。

 

ちなみに、〇〇ネシアという名前が東南アジアによくありますけど、【ネシア】って島々・諸島という意味らしいです。

古代ギリシャ語に由来とのこと。

〇〇ネシアという名前はギリシャ語ってこと?

古代ギリシャが繫栄していたころに付けられたのか?

それとも、詳しいことは分からないけど、あの辺りは【いっぱいの島々】とざっくり呼んだんでしょうかね。

島の集まりの代表選手のような国、フィリピン。

細かいよ~・・・言語の数もとんでもないな。

 

さきほどの本では、【タミル語との出会い】という章に移って、日本語とタミル語の比較を例を挙げて説明してあります。

いやー、タミル語によくたどり着いたよねガーン

そんなことある?インドまで結構遠いよ。

 

しかも、ドラヴィダ語族を研究していた人って多くないらしいのよ。

しかしね、1950年代にインドに派遣されたイギリス人宣教師のロバート・コールドウェルという人物が【ドラヴィダ語、すなわち南インドの言語族の比較文法】という本を書いていて、そこに日本語との比較引用が結構されていたらしいんです。

宣教師っぽいね。

 

しかし、この方、そんなに言語に明るかったんだなぁ。12の言語と比較したとのことです。

日本語を引用できるだなんて、一体どんな人物なんだろうか。

キリスト教の布教ということが使命なわけなので、異国に馴染んでみんなに受け入れられるって容易な事ではないと思うんですよね。

 

とにかく、そんな先人の書いた本が既にあったことで、ドラヴィダ語族と日本語の関係に興味をもった学者も後に現れて来たらしいです。

初めは、全然興味の対象にもならなかったらしいけどね。

 

芝蒸(しば すすむ)氏という方もその一人。

芝氏については、全然情報が出てきません。著書はあります。

 

多言語と比較しなくちゃならないということは、どんだけ多言語をマスターしなきゃならないんだ?

よく、5か国語を喋れるとかいう人がいますけど、同じ語族ならまだしも、文字も発音も文法も全然違うものを習得するなんてねぇ。。

以前、20か国語をマスターしている男性の話を書きましたけど、特殊能力とコミュ力と情熱の塊ですね。

過去記事⇒多国語を学ぶ意味

 

ドラヴィダ語族の中でも単語の意味が細かく書かれている辞書が存在していたのがタミル語だったことが理由で、大野氏はタミル語を調べ始めます。

これは、さきほどの本の目次。

日本語とタミル語の音の対応をまず調べ上げ、その後文法へ。

和歌の五・七・五・七・七の形式と似ている詩があることも発見。

これら諸々の証明をもって、日本語とタミル語は同系統の言語であろうと発表。

これが大野説らしいです。

で、なぜか【闇に葬られている】と。

 

んーー??目

何故葬られたか?ではなくて、如何にして葬られたか?というところもひっかかるね。

まだ、最初の方しか読めていないんだけど・・・

 

現在の朝の連続テレビ小説【らんまん】を観ている方は分かると思うんですけど、主人公の槙野氏は、東京大学で当時、日本唯一の植物学教授(田邊)に許しを得て、大学で研究して論文を書き世界に発表する機会を得ます。

しかし、あることで教授の怒りを買ってしまうんです。

せっかくの大発見なのに・・・

 

なんか、設定は同じじゃないんですけど似たようなものを感じました。

 

以前、【土偶を読む】という本についても書きましたが、この本に対する専門家の批評もまあまあ目にします。

なんか、この感じも似てるなぁと思います。

過去記事⇒土偶の存在

 

これが絶対だ!今までの説は間違ってる!って全面否定したわけじゃないと思うんですよね。

こんな説を自分は打ち立てて証拠もいろいろ集めて、調べて、理論づけてみましたけどどうでしょうか?ってところから、なんだって始まりますよね。

 

それを「ふん、検討するに及ばんね」とか「証拠不十分」とか「ここにミスがある。ここにも、ここにも」とか「無知な読者が読んだら、これが真実かと思っちゃうじゃないか」とか。

古代の事など、誰も見たことがないんです。嘘だとか、騙されてるとか、ミスリードだとか、色んな言い分で潰してしまうのはもったいない気がしますけどね。

 

偽書だと言われてる古史・古伝全般にも言えると思います。

嘘をわざと流布して有名になりたいとか、そういう理由だとちょっとあれですけどね。