日本人らしさとして、色んな例を挙げられたりします。
日本以外の文化を常識として生きてきた人に、それは「クール!」と映ることもあるし、時には「理解できない」と映ることもあります。
例えば、日本人はすぐに「すみません」って台詞を口にすることについても賛否あります。
わたしとしては、【否】の方が多いような印象ですが、どうなのかしら。
「すみません」は、謝罪の言葉だと理解されることが多いから、どうでもいい些細な事にまで謝罪するなんてどうなんだ?と海外の方には受け取られたりするのかな。
別に謝られるようなことじゃないのに・・・とか。
何かを拾ってもらった時に「すみません」じゃなくて「ありがとう」って言えばもっといいのにみたいなね。
確かにね。「ありがとう」が持つポジティブパワーは全世界共通なのかもしれない。
「ありがとう」って言われた方が、嬉しいのかもしれない。
だけど、わたしは思う時があるんです。
「すみません」は単に謝る気持ちで発してる言葉ではないのだと。
「すみません」の中には、「ありがとう」という感謝の感情も含まれている言葉なのだと。
もちろん、発する人の表情がとか
←こんなだったらアレだけども、
←こんなだったりする「あらまぁ、すみませーん」だったりもあるでしょ。
なんか、サザエさんが浮かんじゃったけども。
謙虚な心と言ったら大袈裟だけども、そういう片鱗が現われてる一例と捉えることも出来ると思います。
なので「すぐに日本人って『すみません』って言いがち」というのを否定的なあるあるとしてドヤ顔で批判してる人を見ると「うっせーわ」と思ってしまうw ←どこが謙虚な心か。
日本人は【意味なく笑う】というのも槍玉に挙げられたりします。
でも、こちらとしては決して【意味なく】笑っているんじゃないんです。
場を和やかに保ちたいから笑う場合もあります。
今回、こちらの本を読んだのですが、ここにも【日本人の微笑】という考察として取り上げられていました。
小泉八雲のことは、「あの怪談で有名な方ね」くらいの認識でした。←お恥ずかしい。。
【怪談・耳なし芳一】には、住職に体中にお経を書かれるシーンがありますが、あのお経は実は『般若心経』だったというのは、先日記事に書いたときに知ったことでした。
過去記事⇒呪文を唱えるのは何故?
ギリシャ人の母親とアイルランド人の父親の間に生まれたラフカディオ=ハーンは、幼くして両親と別れて、その後世界中を転々とします。
40歳の時に日本にやって来た彼は、日本という国とその文化や人々の暮らしを本当に愛情深いまなざしで描写しています。
あの、西洋人には不可解な【日本人が浮かべる謎の微笑】についても、理解しようと努めてくれます。
この【日本人の面影】という本は、本当に文章が素晴らしくて美しい。
しかも読みやすくて、心にしみる情景が目に浮かぶような優しい表現に満ちています。
日本の盆踊りを初めて目にした八雲。
素朴な村娘の歌う合唱を耳にした八雲。
彼はその胸に湧いてくる感動という感情をこのように表現しています。
「西洋の歌とは全く異なる、原始的な歌が呼び起こす感情は、いったいどう説明したらいいのであろう。そもそも、人間の感情とは一体何であろうか。それは私にも分からないが、それが私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とはどこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽に下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。それにしてもあの歌は、誰に教わるでもなく、自然界のもっとも古い歌と無理なく調和している。あの歌は、寂しい野辺の歌や、あの「大地の美しい叫び」を生み出す夏虫の合唱と、知らず知らずのうちに血が通い合っているのである。そこに、あの歌の秘密があるのではないだろうか。私はそんな風に思っている。」
なんて素敵な表現なんだろう
感性の高さ、言語化の能力の高さ、洞察力のするどさ・・・
特にピンク色にした部分は、圧倒的な気がします。
目には見えない心の動きというものを、ここまで言葉に置き換えることが出来るなんて・・・!!
もちろん、八雲は英語でこれを書いているので、翻訳ということになるんですけど、素晴らしい文章ですよね。
思わず音読したくなってしまう文章ばかりで、実際に音読してみたんですけど感動が押し寄せて涙が出ました。
中身は、「東洋の第一日目」のという日本の第一印象を描いた章の他にも、「神々の国の首都」「杵築~日本最古の神社」というわたしの大好きなテーマもあってワクワクして読みました。
八雲がなぜ怪談に興味を抱いたのかも、それが日本人に根付く礼節や、優しさや愛情が詰まったものだという視点を置いたからなんですね。
怪談が苦手なわたしとしては、ホラーとしか感じてなかったですけど、なるほどなぁと思いました。