12月になりました。
最近、ブログ更新が滞ってしまってますが、『物部調査』諸々、古代ブームは続いてます。
神社巡りもしてますが、記事にするほどのものではないローカルネタなのでw
こうして好きな事を夢中になってガーっと追い求めてる時が一番幸せなんですが、時々襲ってくる感情があります。
例えば、アマゾンのおススメ本を見てもどれもピンとこない。
受験生か?!並みに動画を見漁っていたのに、パタッと興味が失われる。
ワクワクして新作を心待ちにしていたのに、その気持ちが小さくなる・・・etc
めっちゃくちゃ大袈裟に言うと、【メメント・モリ】くらいの心理状態になります。
メメント・モリの意味をご存じの方は、どんだけ大袈裟な例えかと思われるかもしれませんが・・・
ちなみに、メメント・モリって何?という方に説明しますと
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘るな」「死を忘ることなかれ」という意味の警句。
ね、大袈裟でしょ。
でも、この言葉の歴史を調べ出したら面白くなっちゃったので、今日はこの話を書くことします。
まず、Wikipedia情報。なかなか面白いです。
古代ローマでは、将軍が凱旋パレードを行った際に、戒めとして「今日は勝ったけれど、ずっと勝ち続けられるわけではないですよ」と釘をさす係って方がいたそうです。
なかなかの重責・・・将軍との絆が強くないと担えなそう。
日本の武将でもそういう家臣っていますけど、「恐れながら申し上げます」って殿様に進言できるって相当です。バカ殿とか聞く耳持たずの殿とかプライド高い殿だったら殺されちゃうかもしれないじゃん。
これは、文化的にあの道化にも繋がるのかなぁ・・・
過去記事⇒オペラ物語⑮ 悪人プレイボーイに恋する女たち『リゴレット』
有能な道化の方ね。
しかし、最初はそんな戒め的な言葉ではなかったとの記述もあります。
「死を思え」ではなく「今を楽しめ」
似ているようであり、違う気もするこの二つの言葉。
これもね、解釈として2つあるじゃないですか。
あの、アリとキリギリスのイソップ童話の時と同じだね。
「さあ、飲んで食べて、陽気にやろう! 明日は死ぬかもしれないんだから」という意味での「今を楽しめ」です。やはり、死というものは、常に隣にはあるわけです。
関係ないけど、戦に勝って、「飲んで騒いで陽気にやろう!」というシーンを思い浮かべたらこの曲が頭から離れなくなっちゃいましたw
往年のディスコミュージックの定番【ジンギスカン】⇒動画と歌詞
陽気というものの見本みたいだと思うw
落ち込んだときにこのMV観たらいいかもしれないくらいです。
戦いに明け暮れる日々、仲間が毎日死んで、自分も明日には生きていないかもしれないという精神状態。そんな中、飲んで歌って食べて騒いで、男性の場合は、キレイどころ連れてこーい!!ということになるでしょう。
舞台がチンギスハンの時代のモンゴルとか古代ローマだったら、「そうだろ、そうだろ」って思っちゃうのに、慰安婦問題とかになると「なんて残酷な現実」って思っちゃうんだから勝手だよなぁ~。
さて、メメント・モリという言葉が、キリスト教の教義と結びついたりして、戒め感は確固たるものとなります。芸術にも多大な影響が及ぶようになります。
参照⇒YOUTUBE 山田五郎 オトナの教養講座 【ホルバイン 若者と死を描く?!】
こちらで、説明してくれています。
死の舞踏なども、その流れでしょう。
参照⇒ 世界史の窓 死の舞踏とは?
なんか、日本の末法思想に近いみたいに感じる。疫病が流行って戦争が続いて・・・
サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」という曲もあります。
さぞかし暗くてどんよりする曲かと思いきや、そうじゃないです。
コメントで書かれている方もいましたがNHK大河の真田丸のテーマ曲に似てる部分があり、カッコよくてテンポが良い。
参照動画⇒サン=サーンス「死の舞踏」
聴いた事が無い方は、一度どうぞ。
死の恐怖に取りつかれてしまった民衆たちは、半狂乱になって死ぬまで踊り続ける集団ヒステリー状態を絵画にしたり音楽にしたりしてるみたいです。
その状況は想像したくないくらいおぞましいですけどね。
メメント・モリの説教なんて、そうなったら耳になんて入りません。
人はいづれ死ぬものだなんて言われても、恐怖が支配していたら納得なんて出来ません。
冷静に受け止められません。
ジンギスカンの陽気な踊りが懐かしくてたまりません。
これまでの説明で、無我夢中の集中が切れた状態を「メメント・モリ」と表現するのは完全にズレているのは分かっていますが、つまり言いたいのは「今を楽しめ」「今に常に感謝」という気持ちです。終わりは来ちゃうけど、その終わりにばっかり目を向けて暗く過ごしていたらきっと無駄なんだという、自分への戒めです。