シューマンは、精神病院に入院する少し前、音楽新聞の編集部に原稿を送りつけます。その原稿は、彼の弟子である、ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms、ドイツ、1833-1897)について書いたもので、ブラームスの音楽を大絶賛し、彼は「美の女神と英雄たち」によって見守られている、とまで述べています。この記事のおかげでブラームスは有名になったと言ってもいいでしょう。まるでシューマンは、自分がまもなく音楽の世界から去ることを承知していて、ブラームスが自分の地位を勝ち取るのを歓迎したかったかのようでした。

 

ブラームスは、バッハと同じくらい私の大好きな作曲家なので、いまから彼の魅力をお伝えできると思うと、わくわくが止まりません!笑

 

 

ブラームスは1833年、ドイツ北部のハンブルクという都市で生まれました。両親は変わった夫婦で、偉大な芸術家の親にはめずらしいタイプです。というのも、ふたりとも特に高い教育を受けていません。ブラームスがどうして志を抱くようになり、何をきっかけに学ぶことへの欲求を感じるようになったかはわかりませんが、彼はたしかに独学の天才でした。

 

ブラームスは、幼い頃から熱心にピアノを練習し(いっとき、チェロとホルンも学びました)、ダンスの伴奏をして生活費を稼ぎ、自分で曲を作りはじめたものの、無名で誰にも評価されないまま、ハンブルクの町に閉じこもっていることが、かなり息苦しくなってきていました。

 

そうこうするうちに、デュッセルドルフという町へ旅行をする機会がおとずれ、そのおかげでシューマンと出会います。シューマンが精神病院に入院すると、ブラームスはほとんどシューマンの家で暮らすようになり、演奏旅行で留守のクララに代わって子どもたちの面倒を見たり、シューマンの残したすばらしい楽譜の整理に当たったりします。そして、音楽についてたくさん勉強し、作曲の手順を学びました。あるとき、シューマンが新聞記事の中でほめちぎってくれたおかげで、ブラームスはあっという間に有名人になり、すばらしい曲を発表することを期待されました。しかし、こうしたプレッシャーに、シューマンの病気と死からくるショックが加わり、さらに、シューマンの妻であるクララに猛烈に恋をしてしまったという、ちょっとやっかいなこともあって、ブラームスはひどい不調に陥ります。突然、音楽がまったく書けなくなってしまったのです。

 

しばらくして、ブラームスはちゃんと稼いで生活をしていかなくては、とついに決意します。このままクララのことを思いながら生きるとしても、彼女と結婚するにしても、どちらもあまりよい選択とはいえないので、クララのもとを離れなければ、と決めたのです。そうしてハンブルクへ戻り、ようやく作曲の仕事に再び取り組めるようになりました。

 

彼の音楽は大きく変わりました。以前のブラームスがシューマンに見せていた曲は、勝手気ままで自由で、近代的な響きをもっていました。しかし、作曲家として厚い壁にぶつかってしまったとき、彼はシューマンの残した楽譜や資料を研究することによって、作曲の仕事を再開する道を見つけ出しました。ブラームスは、未来へ向けて、過去を頼りにしたのです!その結果、彼の音楽はもっときちんとまとまった、バランスのとれたものになり、昔の巨匠たちの古典的な音楽によく似た音楽となりました。彼は、以前のように奇抜なアイデアにすぐに飛びつくようなことをしなくなったのです。もちろん、以前と同様に彼の言葉には豊かな感情があふれていましたが、いまや、とりとめのない空想は、きちんとした物語に姿を変えたということです。

 

ハンブルクのアパートは借りたまま、ブラームスは旅行に出ることがますます多くなりました。ドイツをスイスをあちこち回って、自分の曲やほかの作曲家の作品を、ピアノで演奏したり、指揮したりしました。しかし、ついにどこかに落ち着かないわけにはいかなくなり、1869年、ブラームスは、数多くの昔の大作曲家たちの故郷であるウィーンを選びました。彼は亡くなるまでウィーンの町で暮らし、窓のすぐ向こうに、カール教会という有名な古い教会のすてきな眺めがひらけた、こぢんまりした賃貸アパートに住みました。ウィーンは音楽活動が盛んなうえ、いろいろな国の人が集まってにぎやかでもありました。この活気に満ちた町が、ブラームスにはぴったり合っていたのです。

 

彼は毎年、夏はドイツやオーストリアやスイスの田舎で過ごしていました(大好きなイタリアへ何度か行ったこともありましたが、ブラームスは外国語がまるっきりダメだったので、ドイツ語の通じない国は避けました)。彼が作品を仕上げてしまうのは、こうした夏のあいだで、野山をてくてく歩きながら、頭の中で新曲を考えるのです。そして、山を登るあいだはいつも、「こんなことをやるなんて、なんて俺はバカなんだ!」と息を切らしながらブーブー言うくせに、山を下りはじめると、おいしい食事とビールのある場所へだんだんと近づくせいか、うって変わってご機嫌になるのでした。

 

さらに年をとると、ブラームスは、「自分の音楽は古臭くさいといって、流行に乗った年下の作曲家たちは間違った道を歩み、未来の音楽をダメにしてしまうんじゃないか」と感じていました。下の世代の売れっ子音楽家の大多数は、ブラームスの強力なライバルであるリヒャルト・ワーグナーの影響を受けていました。ドイツの古い神話や伝説をもとに壮大なオペラを作った作曲家です。正直、ワーグナーはとっても感じの悪い人でしたが、偉大な音楽家で、彼の思想を無視することはできませんでした。

 

当時、ブラームスが大好きだった作曲家は多くありません。まず、なんといってもこの人。「ワルツ王」と呼ばれ、あの有名な《美しく青きドナウ》をはじめ、魅力的な曲を山ほど書いたヨハン・シュトラウス2世。

 

 

それから、とってもすてきで無邪気な、チェコの作曲家ドヴォルザークです。彼については、またのちほど紹介したいと思います。

 

ブラームスは、自分の作品の売り上げだけでお金持ちになった最初の作曲家なのですが、稼いだお金を何に使えばいいのかよくわかりませんでした。それで、まとまったお金をクララ・シューマンや出版社に送って自分のために投資してもらったりもしていましたが、家族や親せきをはじめ、若い音楽家、音楽関係の団体、慈善団体、それに、誰であれ本当に困っている人にかなりたくさんのお金を寄付していました。ブラームスの一番変わっているところは、どんなに親切で優しくて心が広い人間かを、人に知られたくなかったことです。「赤いハリネズミ」という名のレストランが好きで、よく通っていたのですが、彼は、ほんとにハリネズミみたいな人でした。本当は優しい人なのに、針の下にそれを隠しているのです。ブラームスは、若い作曲家たちに厳しくして、「ろくでもない曲を作って、それに気づかないタワケ者」だの「これで作曲家になろうなんて、お門違いも甚だしい」などと口では言うのですが、経済的な援助はしてやるので、彼らは仕事を探したりせずに、自分の時間をすべて作曲の勉強に費やすことができたのです。

 

ブラームスは、自分の作品の出来についても、非常に厳しい人でした。一曲一曲をこれでもかというほど手間をかけて練り直すのですが、曲が出来上がっても、そうした努力に満足を感じることはほとんどありませんでした。少なくとも20曲の弦楽四重奏を作ったのに、楽譜を出版したのはわずか3曲で、残りの作品は全部自分で焼き捨ててしまいました。そのほかについても、作品の半数以上が捨てられています。ブラームスには、モーツァルトがレストランやうるさい部屋でもすいすいと名曲を書けたことが、理解できませんでした。「俺はすべての音符と取っ組み合いをしないと曲が書けないのに。あまりにも不公平じゃないか!」。

 

ブラームスは、モーツァルトが幸せな結婚生活を送ったことも、嫉妬してたかもしれません。ブラームスは、生涯独身でした。妹のエリーゼが結婚したとき、ブラームスは「よくない結果になる」と心配し、なんと、「エリーゼのためを思って、自分はずっと独身でいるのだ」、と宣言したのです。この理屈、ちょっとわかる気がするのは、私だけでしょうか。。。(笑)。。。とはいえブラームスは、婚約までこぎつけたことが何度かありました。でも、どれもうまくいきませんでした。その大きな原因は、人と親しくなりすぎて本当の自分を知られるのを恐れていたことだと思います。ハリネズミの針の下まで入り込む方法を、誰にも知られたくなかったのではないかと。

 

友だち付き合いも不安定でした。音楽や政治や私生活をめぐってしょっちゅうけんかをしてばかりで、絶交した相手もたくさんいました。ブラームスは、頭に浮かぶことを口にしてしまう人なのです。けんかにはならなくても、相手を徹底的にやりこめてしまうこともありました。

 

では、ブラームスは、音楽のために人生のすべてをあきらめた、惨めで悲しい人だったのでしょうか? 私はそうは思いません。自分は独りぼっちだとさんざん嘆いていたにもかかわらず、ウィーンにいるときも、毎年夏を田舎で過ごすときも、彼にはいつも仲間がいました。レストランで食事をしながら、ジプシーたちのヴァイオリンが情熱的なメロディを奏でたり、ダンス・オーケストラがウィンナ・ワルツを演奏したりするのを聴いて、とても愉快なひとときを過ごしていたのです。レストランへ行かないときは、ビアホールで飲みながら、将来有望な若い音楽家を集めて、人生の何たるかを語ったり、冗談話で笑わせたりしていました。また悲しでいる友だちに心を尽くすときは、どんなことでもやってあげました。ブラームスは、怒りっぽくていつもガミガミいうわりに、懐が深く、とても愛情豊かな人だったのです。

 

1896年、クララ・シューマンが亡くなったことはブラームスにとって大きな衝撃でした。一番親しい友だちを亡くしたのは、すごくつらいことでした。自分も遠からず天に召されるのではないかと、ブラームスはさとったはずです。その後、ブラームスの体は目に見えて悪くなっていきました。体重が減りはじめましたが、自分ではそれを認めようとせず、「ほら、服だって緩くなってないじゃないか」と指摘しました。実は、大家のおばさんが内緒で服をお直ししてくれたので、ブラームスは痩せたことに気づかなかったのです。

 

まもなく、彼の命がもう長くないことが広く知れ渡りました。それでも彼は、自分の病気を、「たいしたことないさ」と言っていました。

 

最後のコンサートでの演奏が終わると、ウィーンの人々はブラームスに、とってもすてきな別れのあいさつを、満場の拍手で表しました。ブラームスは、次から次へとこぼれる涙とともに、大喝采を受けとめました。ハリネズミのトゲも丸くなりつつあり、彼はためらうことなく人に感じよく接するようになっていたのです!

 

1897年4月3日、ブラームスは亡くなりました。コップに入れた白ワインを手渡してくれた友だちに向かって、「ああ、うまい!きみはいいやつだ」と言ったのが最後の言葉でした。怒りっぽいハリネズミにしてはびっくりするほど優しい態度ですが、亡くなる直前は、そんな彼の本当の人柄が現れていたのです。

 

彼の仕事部屋には、最後に取り組んでいた、オルガンのためのコラール前奏曲の楽譜が、何曲かまとまって置かれていました。そのうち最後の曲のタイトルは、《おお、世界よ!  私はお前から去っていかねばならない》。彼が尊敬していたバッハと同じように、ブラームスは宗教的なコラールを別れのあいさつとして、私たちに残しました。まるで人生の終わりを覚悟していたと告げるかのように。彼は、もちろん、言葉ではなく音楽で「さようなら」を伝えたのでした。