モーツァルトは、ある男のピアノの演奏を聴いて、友人たちに、「この男から目を離すな。いつか必ず評判になるだろうから」と伝えました。その男こそ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、ドイツ、1770-1827)です。ドイツ語っぽく言うと、「ルートヴィヒ・ファン・ビートゥホーフン」となります。

 
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ベートーヴェンは1770年、ドイツのボンに住む音楽一家に生まれました。父ヨーハンと母マリアの長男として育った彼の下には、カスパール・カールと、ニコラウス・ヨーハンという二人の弟がいました。神童ではなかったものの、若きベートーヴェンの音楽の才能は、その後目覚ましい勢いで花開き、16歳で腕利きのピアニスト、オルガニストとして認められ、すでにたくさんの作品を作曲していました。この才能にさらに磨きをかける機会が必要だとして、ベートーヴェンはウィーンという大きな町へ留学させてもらえることになります。ところが、母親が重い病に倒れたとの知らせを受け、急いでボンに戻ることになったため、ウィーンには結局たった2週間しかいられませんでした。まもなく母親は息を引き取り、ベートーヴェンはその後、4年に渡ってボンを離れることができませんでした。というのも、アルコール中毒がひどくなっていた父親に代わって、生活費を稼がなければならなかったからです。二人の弟を養うのは、大きな重荷だったことでしょう。
 
1792年、以前紹介した大作曲家ハイドンがボンを訪れます。ベートーヴェンの楽譜を見てその才能に感じ入ったハイドンは、彼の弟子入りをゆるしました。ボンの選帝侯からたくさん援助を受けたベートーヴェンは、ハイドンに教わりにウィーンへ行きます。この、人生で二度目の旅のおかげで、彼は広い世界で身を立てて名を上げるチャンスを得たのです。そして、ウィーンの人々の気質や彼らの音楽の評価の仕方について、ずーっと文句を言い続けながらも、残りの人生をウィーンで送ることになります。同年に父ヨーハンは亡くなり、二人の弟がウィーンへ引っ越してきました。カスパール・カールは銀行員に、ニコラウス・ヨーハンは薬剤師になりましたが、ベートーヴェンは彼らの居候を心から喜んでいたわけではありません。どちらとも仲が悪く、いつも喧嘩ばかりしていましたし、義理の妹たちも大の苦手でした。
 
大都会へ出てきたベートーヴェンは、立派な音楽家になるためならいくらでも頑張るつもりでいましたが、ハイドンの弟子になったのは大成功とは言えませんでした。というのも、ベートーヴェンはなんでも言うことを聞く素直な人ではありませんでした笑。生活のために音楽を教えてもいましたが、うまく行きませんでした。生徒たちの出来の悪さにイライラさせられていたベートーヴェンは、あるときあまりにも腹が立って、生徒の肩に噛み付いちゃったのです笑。
 
30歳頃から耳の病気が悪化し、四六時中ゴーゴー、ヒューヒューと耳鳴りしか聞こえない状態になってしまいます。正しい音を演奏できているかどうか自分で確かめられなくなってしまったため、ピアニストとして演奏会に出演する仕事は減らさざるをえませんでした。オーケストラのための曲は死ぬ直前までずっと自分で指揮していましたが、お客さんに気まずい思いをさせてしまったこともあります。ベートーヴェンは何でも大げさに表現する人で、オーケストラに静かに演奏してもらいたいときは譜面台の下をヘビのように這ったり、勢いよく弦を鳴らしてほしいときはいきなり宙に跳び上がったりしました。耳が聞こえなくなってからは、オーケストラがどこを演奏しているかわからなかったため、ときどき迷子になってしまい、優雅でゆったりとした演奏の最中にピョンと跳び上がってしまうこともありました。ありゃりゃ......。
 
ベートーヴェンは、知り合いが生活に困っていると知ると、誰よりも親身になって心配しました。例えば、バッハの末娘レギーナ・スザンナも、彼がお金を工面してあげたひとりです。しかし、生まれつきの情け深さは変わらなくとも、耳の具合が悪くなるに従って、みんなが自分からお金をだまし取ろうとしているのではないかと疑うようになっていきます。
 
1815年、弟カールが亡くなり、ベートーヴェンは9歳の甥カールの後見役を務めることになります。やっかいなことに弟カールは、息子の親権を兄と妻が半分ずつ持つよう願っていました。しかし、ベートーヴェンは義妹ヨハンナとは犬猿の仲。派手なけんかが起こり、10年以上もの長い間、法廷上の争いに巻き込まれます。この頃は、彼の人生で一番つらい時期だったかもしれません。甥カールをめぐる揉め事に悩まされていたベートーヴェンは、2年近く新曲を作る余裕がありませんでした。
 
1817年、ベートーヴェンは復讐するかのように作曲に専念し始めます。以降、亡くなるまでの10年間は、彼がこの世で味わった喜びや悲しみが全て詰め込まれたような、大傑作がいくつも生まれました。ただ、彼の晩年の作品は、わかりにくいと思われることもありました。当時のほかの音楽家の作品からは、何十光年も先へ進んでいるような音楽だったからです。しかし、それでもやっぱり、その頃の作曲家の中でベートーヴェンが最も偉大であることは、世間に広く認められていました。
 
 
1824年、亡くなる3年前のコンサートでのこと。演奏が終わって、立ったまま楽譜を揃えていると、歌い手の一人が彼の袖を引っ張り、客席を指さしました。後ろを振り向いたベートーヴェンは、観客が全員、立って拍手をしていることに気づきました。彼はもう何も聞こえなかったのです。それから2年後、長い病気で衰えていたうえにタチの悪い風邪をひいてしまい、翌年の1827年に息を引き取ります。
 
ちなみに、ベートーヴェンは生涯独身でしたが、彼の死後、「永遠の恋人」に宛てたラブレターが発見されました。熱い想いを綴ったこの手紙は、ベートーヴェンが最愛の女性に書いたもので、その文体や内容から、彼女の方も彼を熱愛していたようです。しかし、この「永遠の恋人」が誰を指すかは、たくさんの説があり、はっきりとは分かっていません。気になる謎ですね。。。
 
ベートーヴェンは、しかめっ面で怖そうな男のように思われることも多いですが、そうではない面もたくさんあったと思います。とはいえ、その運命は厳しいものでした。彼はこう言っています。「生きることは素晴らしいが、私の人生はずっと台無しのままだ」と。しかし彼は、一生の仕事で一番大事な聴覚を失うという不幸に押しつぶされませんでした。《交響曲第9番》の歌詞に「人類はみな兄弟だ」というメッセージがあるように、音楽を通して世界の平和を目指したベートーヴェンは、本当にヒーローです!