今日はひさびさに勾玉の歴史に
ついて書いてみたいと思います。





勾玉は、最盛期(5C~6C)の
古墳時代に全国から玉造り職人や
材料の石を集めた官営工房で
量産されていましたが


ある時期から消えてしまいます。


それは歴史的大きな勢力争いが
ひとつの原因だったともいえますが

時代の推移というか
そういう流れだったのでしょうか。


以前にも書きましたが勾玉が発掘
されるようになったのは縄文時代
中期(5500年~4500年)です。
(早期という説もありますが)


北は北海道から南は沖縄までに
分布する縄文時代の遺跡から
出土しています。


そして後期(4500年~3300年)と
その後の晩期(3300年~2500年?)
には形も異型勾玉ができたり
石の材質も変わっていくのですが
勾玉として、ちゃんと弥生時代に
継承されていきます。


考えたら日本全域に勾玉が出土
ってすごいですよね。


それも新潟県糸魚川産の翡翠で
勾玉を作っていたなんて!
翡翠という石に特別な何かが
あったとしか思えないというか。


翡翠は結構硬い石なので砂と竹管で
ひたすら擦り擦りして孔を開けても
かなりの時間がかかるでしょう。


いったい1個作るのにどれくらい
時間が要したのでしょうか?
縄文人にインタビューしたいな(笑)


現代では機械でも勾玉を作って

売っていますが


古代型勾玉の方がどちらかと

いえばぷっくりしているので

見るとすぐわかります。


1個ずつ手作りでせいぜい1日に

1個くらいしか作られないので

手間が掛かっている分

とても貴重ですよね。


Stepstone勾玉屋の勾玉も全部
古代型なので手作りです。

よく見ると微妙に形が違います。


時々私に削っているのですか?
なーんて聞かれますが(;^^A
しませんってば。


歴史に疎い私は縄文遺跡が
沖縄にもあったとは調べるまで
知りませんでした(汗)


縄文遺跡は全国に200箇所以上
あり予想外に多いです。
(あくまで私の感覚です)


余談ですが東大では縄文人の系統を
調べる為、ゲノム解析をしたら
琉球民族とアイヌ民族に共通性が
みられるということが解ったらしい
ですね。


どおりでどちらの民族も
風貌が似ていると思いました。
縄文人のイメージがつかめます。


また沖縄ではノロという女性の
神官がいて(ユタは民間の巫女)
オタキ(御嶽)と呼ばれる聖地を
管理し祭祀を執り行っているのですが
ご神事の時は勾玉の首飾りをします。
翡翠の大きな勾玉です。


縄文時代の流れをここにも
感じられるというか。


そして話しを戻すと
大陸からBC5C頃(これは推定で
実際はもっと遡るのかもしれない)
稲作が北九州に伝わると急速に
広まっていきます。


今度は農耕を中心とした時代に
変わっていくわけで
弥生時代の始りです。


でも稲作をする為には
水田を作る土地の必要性、作る人
水路の確保や田を耕す道具類
お米を保存する場所など
様々なものが必要になってしまい


そういうことから小さな集落の
あちこちで争いが起きるように
なっていくのです。


物を貯蔵すると貧富の差が
生まれてしまうのですね。


やがて集落同士でも争いになり
力の強い者が実権をにぎるクニを
作り始め、豪族が誕生します。


防御性のある環濠集落が
あちこちに出来たのはそういう
理由からなのですね。


そして弥生時代に継承された勾玉は
今度は鉄や銅を輸入する為の
交易品となってしまいます。


この頃の勾玉は定型勾玉といい
今現代私達が目にする勾玉と
同じものです。


魏志倭人伝(紀元3C中頃)には
邪馬台国の王の壱与(卑弥呼の次)
から、真珠5000個、青い勾玉2個
高価な織物40反、男女30人
魏の国へ貢ぎ物を送ったと
書かれていて


勾玉2個が他の品々に匹敵する程
高価な宝飾品だったことが
伺えますね。


古墳時代(3C中頃~7C)に
入ると勾玉作りも最盛期を迎え
出雲中心に作られていた勾玉は
碧玉や瑪瑙、水晶で作り
国内需要へと向けられます。


それは豪族が権力の象徴として
勾玉を持つようになったからで
古墳時代のお墓の副葬品から
たくさん出土しています。


翡翠の方は大和朝廷の独占事業
としてもっぱら朝鮮半島
との交易に使われていました。


なのでたくさん作られていたの
でしょうね。


そして6C半ば仏教が渡来人によって
もたらされると中国文化に傾倒した
政治家達は段々と神道に重きを
置かなくなっていくのです。


当時朝廷のご神事を担当していた
物部氏と仏教を推奨する蘇我氏の
二大勢力がぶつかり対立する
ようになってしまい


6C後半蘇我氏と物部氏の戦いで
物部氏が敗れると祭祀で扱われていた
勾玉もやがては減少していき
消えてしまうという運命を迎えて
しまうわけでした。


奈良時代以降は明治になるまで
装身具としての、首飾り、耳飾
腕輪、足飾が、櫛を除いて全て

使われなくなったそうですよ。


いったい何故なのでしょうね?

謎は深まるばかり。


だって着物だし似合わないじゃん。
そういう問題じゃないような
気がするけどね~(;^^A


次回は勾玉の形に関して
書きたいと思います。


最後まで読んで頂きありがとう
ございました。