ハートを通してみる世界
最近『河合隼雄』さんの『幸福論』という本を読みました。
河合さんは心理療法家として有名な方ですね。
この本は河合さんの幸福についてのエッセーです。
河合さんの相談者に暖かく寄り添う姿勢は、深い人間理解による共感が元になっているのですね。
エッセーの語り口は柔らかでですが決して感傷的になることもなく、醒めた目線で物事をみつめているところがとても好きです。
読んでいて、私自身が河合さんにカウンセリングをしてもらっているような気持ちになりました。
その本の中で『新川和江』さんの詩が引用されていました。心惹かれました。
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わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃(はばた)き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注(つ)がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮(うしお) ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
,(コンマ)や .(ピリオド) いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
<新川和江 私を束ねないで>
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なんて優しい、けれど激しい叫びなんだろう・・・と思いました
思えば、私も自我が芽生えた辺りからこのような想いで一杯でした。束ねられることへの抵抗は娘であること、妻であること、母であること、嫁であることなど結構重苦しくのしかかっていました。抵抗の葛藤はしばらく続きました。人って束ねるのが好きですから、なんて思っても抵抗することに相当のエネルギーを使いました。
反発し、抵抗し早くから女性の解放運動に賛同し実行していても、心理的に負担が大きく、あるときから周りの人たちの理解を諦めるようになりました。でも相変わらず不自由で心の何処かで周囲や世間との和解を求めていたのです。
今はそのような葛藤はなくなりましたが、その時の試行錯誤は無駄ではなかった、と思っています。
最近思うのですが、自由に振る舞っていても、自分で『女なのだから~』『男なのだから』『母なのだから~』『父なのだから』『嫁なのだから~』など自分を縛り付けてはいなかっただろうか・・・。
河合さんは自分が自分を束ねてしまっている、のではないか、と書かれています。
思えば呼び名はなんであっても私は私。呼び名はなんでもいい。
問題はそのような束ねることを自分がやってしまっている、ことではないか~と。。。
更に結びに書かれているのは
。。。。新川さんの『束ねないで』という訴えは、あくまで自由に羽ばたこうとする自分が、何とか自分を束ねてしまおうとする自分に向って叫んでいるように思えてくる。一番恐ろしいのは、他人ではなく自分が自分を『束ねる』ことなのである。。。。
本当にそうなんですね。
自分への縛りが少なくなればなるほど、しなやかに生きられ、幸福感が増すことでしょう^^
