わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか (マルコ15・34より)
十字架のキリスト
フレスコ画
セルビア ストゥデニカ修道院 13世紀初め
『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年3月24日 受難の主日(枝の主日) B年 (赤) わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか (マルコ15・34より)
十字架のキリスト
フレスコ画
セルビア ストゥデニカ修道院 13世紀初め
きょうの福音朗読すなわちマルコ福音書15章1-30節による 受難朗読にちなんで、十字架上で死ぬイエスを描くイコンを鑑賞しよう。多くの絵と同様に、ヨハネ福音書19章25-27節に基づき、マリアと使徒ヨハネが両脇に配置されている。マリアの後ろにさらに3人の女性が描かれているのは、ヨハネの記述「その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(19・25)がもとになっているのだろう。使徒ヨハネの後ろには、兵士もいる。
イエスの身体の屈曲、閉じられた目は死の事実を示すが、その両手も、身体の線も美しい。イエスの死のうちに神の栄光の現れがあることが、死の様子の写実表現ではなく、ある宗教的な美をもって表されていることが重要であろう。十字架の背景の青紫色が印象深い。十字架、上にいる天使、その脇は、預言者や福音記者の象徴と思われるが、それらすべてを包むのが、この青紫色である。聖霊も思わせる。マリアも使徒ヨハネもまったくうつむいて悲嘆に暮れているようであるが、すでにその上には、聖霊の到来があるものと感じさせられる。キリストの死から復活の栄光への移行としての過越の神秘の図としてどこまでも味わい深い。
十字架のイエスを描く図は、このようにヨハネ福音書が根底にあるといえるが、そこには、もちろん、各福音書が照らしだすイエスの死の意味合いを重ね合わせて鑑賞する余地はある。
マルコ福音書(15・34)では(そしてこの点ではマタイ福音書〈27・46〉も同様)、イエスが十字架上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と言ったということが記されている。その解釈としてマルコは(マタイも)「これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」と解説している。このことばは、詩編22の冒頭のことばである。苦しむ義人の祈りとも呼ばれる詩編22のすべてをこのイエスの十字架の姿に重ね合わせてみるとき、この受難の意味を考えるためのヒントが多い。とくにこの詩編22の19節では、「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」という部分は、イエスの受難の叙述の中のマルコ15章24節「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」のベースになっている。そのほかにも、十字架のイエスに対する群衆や兵士の様子に関しては、詩編22と重なる部分があるので全体をぜひ読んでみたい。
一説では、イエスが叫んだことばは「エリ、アッター」でつまり「あなたこそわたしの神です」という信仰告白であったともいう。群衆は、これを「エリア、ター」(エリヤよ、来てください)」と言っていると思って、マルコが記すように、「そら、エリヤを呼んでいる」(マルコ15・35)と受けとって叫んだというのである(高橋重幸『主日の聖書』オリエンス宗教研究所発行 1986, 147ページ参照)。この「あなたこそわたしの神です」という表現が、詩編22章11節にも含まれている。「母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」である。ここをマルコ(とマタイ)は解釈の起点として、全体として詩編22との関連づけで、この十字架の出来事を叙述していると考えられるのである。
いずれにしても、ここで、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」ということばをイエスが告げたとしても、神に対する嘆きや疑いにとどまることばではなく、詩編22を参考にすれば、それは、まさしく神への信頼をこめた嘆願「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください」(詩編22・20)へと展開していく。それはさらに「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」(詩編22・23)という神賛美、そして「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」(詩編22・30-32)と、神のわざのあかしへの決意へと広がっていく。旧約の預言の一つの極致である「苦しむ義人」の姿をイエスは確かにその身をもって極限まで示している。それは、単に義人の生涯ではなく、神から来た、神の御子であるという真実と神秘、使徒たちはこれから悟ることになる。その最初の悟りが、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)と異邦人の百人隊長のことばに証言させているのがマルコ(とマタイ)である。