9月23日の横浜アリーナ大会ではそのムタの初防衛戦の相手を務めるが、当時のムタでは好勝負など期待出来るはずもなく、それなりの試合に終わり、さらにメインでもなかった。以前、藤波との試合で暴動寸前まで行った事のある「前科」から、王座戦であってもムタの試合をメインに置かれる事は避けられていたのである。
当時、ノーテレビのタイトル戦も多かったので、そちらではどうだったのかは分からないが、少なくともテレビマッチにおいては全てセミ以下であった。それどころか、6月のカブキ戦などは元々中継予定であったはずなのに、放映するにはあまりにも不適切な内容だったおかげでビデオ発売までお蔵入りとなってしまったほどである。当然、メインどころかセミでもなかった。
その後の話題も完全にWARとの対抗戦で持ち切りとなり、当然天龍源一郎と比べたらまだ三銃士は格下であったため、抗争の軸はやはり天龍と長州が中心だった。1.4では橋本かねてからの希望により(だったと思う)、猪木と組んでのタッグマッチが組まれていたのであるが、なんとランニング中の骨折(だったはず)により欠場、急遽マサ斎藤に変更し、なんの変哲もないタッグマッチとなってしまった。今考えれば、これも不可解な理由であり、単純に猪木が出たくなかっただけ、な気がする。
5月の史上初の福岡ドーム大会では、蝶野と組んでホーク・健介とのヘルレイザースとの試合であったが、これに関しては全く記憶にない。他のカードが豪華すぎるというのもあったにせよ、つまりはまだ橋本はこの程度の扱いでしかなかったという訳である。
そして8月、史上初かつ唯一の両国7連戦となったG1クライマックスとなるが、なんとトーナメントは2~6日目の5日間だけ、初日は主力は全てタッグマッチの何の変哲もない興行、そして最終日にはG1とは何の関係もなく天龍VS橋本のシングルが組まれていた。この時点でまあお察しなのであるが、橋本は1回戦であっさりと馳浩に敗北、トーナメント初日で姿を消した。
そして、この時点ではまだ長州力しかシングルで勝利を収めていなかったので、天龍との試合も当然敗北。まだまだ橋本時代は到来していなかったが、この試合が実は福岡ドームのテーマ曲である「Welcome to the Pleasure Dome ~Into the battle mix」の一部が初めて前奏に使われた試合だったのである。
もちろん、この当時はまだ福岡ドーム大会のテーマ、と言う認識でしかなかったので、会場の反応は極めて薄かったのであるが、続けていくうちに定番となり、これが流れた時点で歓声が沸いていったものである。