武藤敬司を語る・その3 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

その年も夏まではあまり見る事は出来なかったのであるが、週刊プロレスは常に立ち読みするようになるぐらいプロレスにハマりつつあった。そして、その年の7月に今は亡き北海道のプロレスのメッカであった札幌中島体育センターで行われたのが、ムタ・TNTVS馳・佐々木組の試合である。

 

黒地に銀のペイントをしてきたムタは、試合開始からヒール全開、途中馳を大流血に追い込むと、ゴング用の木槌まで持ち出し馳に対してやりたい放題、これがあの武藤敬司なのか思わせるほどの悪党ぶりを披露した。のちのムタに慣れた今の目線で見ると至って普通のムタなのであるが、実はそれまではムタと武藤の使い分けに試行錯誤をしていた感があり、案外外れの試合が多かったりもしたのだ。

 

アメリカであれば武藤敬司と言うレスラーは存在しないので、どんな形となってもムタはムタなのであるが、日本ではそうもいかないため、無理してでも使い分けをする必要があった。それがどうしても上手く行かず、ファンの支持も受ける事がなかなか出来なかったのであるが、それを振り切った初めての試合と言えるのがこのタッグマッチであったかと思う。

 

私はあいにく中継を見逃してしまい、週プロでしかリポートを見る事が出来なかったのであるが、写真や記事だけだとさらにおどろおどろしさが増したため、まだ何も知らない私はこれが本当にあの武藤敬司なのか、と大変ショックを受けたものだ。と言う訳で、この一戦にショックを受けた私は武藤への思いが複雑になり、翌月のG1クライマックス決勝では自然と蝶野を応援していた。

 

その記念すべきG1クライマックスは一体なんなのかも分からなかったが、その語呂の良さだけでもインパクトがあったものだ。そして、決勝は当時の新日本としては珍しい30分近い試合となり、蝶野のあの有名なパワーボム一発で決着がついた。今見返してみると、その前に蝶野はドリル・ア・ホール・パイルドライバーを2回ほど繰り出しており、それが上手くパワーボムへのフリになったと思う。

 

股に挟んだ時点でほとんどの人がパイルドライバーだと思った所、実は肩の高さまで持ち上げてのパワーボムだった、と言うインパクトは非常に強く、観客のどよめきがそれを物語っている。この年の年間最高試合賞は年末の天龍VSホーガンだったのだが、大多数のファンにとって1991年と言えば鶴田VS三沢か、このG1決勝である事は間違いなく、1988年に藤波VS猪木が大賞に選ばれなかったぐらい不可解な選考だったと言える。