追悼・アントニオ猪木・その21 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

引退試合のセレモニーは、特番はもちろん本放送枠でも詳細に放映された。当然、あのスピーチも完全に放映されたのであるが、ほとんどの人はこの時に「道」を知ったはずである。ただ、若干文章は異なるものの、ウッドベルから「炎のファイター」が復刻CD化された際のライナーに紹介されていたので、私自身はすでに「道」は知っていた。

 

しかし、当然ここからその「道」は一気にファンの知られる所となり、様々な人たちの心を揺れ動かしたものである。今でもなお、私が一番好きな言葉のひとつである。そして、完全引退を果たした猪木はその後佐山聡と組み、ご存じUFOを旗揚げするのであるが、実はこの年の6月ぐらいで週刊プロレスを買うのを止めてしまい、中継も見なくなってしまったのでその後しばらくの動きは実は全く分からないのである。

 

逆に、全日本は時間帯が繰り上がった事で、比較的に良く見たのであるが、新日本は1時間枠とは言え、すでに深夜2時ぐらいになっていてしまったから、録画なしでは見る事はほとんど出来なかったのである。なので、当然その当時の猪木の動きも知る由もない。さすがに夏のG1クライマックスぐらいは見たかと思うが、さすがに決勝が橋本VS山崎では、結果が容易に理解出来てしまい、案の定橋本の勝利となったので、特に何の思い入れもなかった。

 

と言う訳で、時間は一気に飛んで1999年1月4日のあの大事件である。この時は当日深夜に1時間半枠で放映されたのであるが、目玉と言えば遂に初参戦を果たした大仁田厚のみだった。永島氏によると、大仁田厚の新日本登場に猪木は大反発し、大喧嘩となったそうであるが、今思えば猪木ですら警戒するというのは大仁田厚に対する最上級の評価ではなかったかと思う。

 

しかし、そんな大仁田厚の光を消すためか、猪木にけしかけられた小川直也は伝説の大事件を起こしてしまう。近年、小川自身から真実を語られたが、まあ大方の予想通り過ぎて驚きもしなかった。当時の小川にそこまで命令できるのは猪木以外あり得なかったからである。そして、猪木の言う事を聞いてくれない坂口から、イエスマンの藤波に強引に社長の座を禅譲させ、10月にはプロレスの枠内ながら再戦、小川の価値はさらに高まり、対照的に橋本の価値は暴落。

 

この時の再戦は、久米宏が夏休みなのを良いことにニュースステーションで当日速報の大特集、リングの魂におけるダイジェストでも7パーセントを超える驚異的な視聴率を記録するなど、久々に世間まで届く大ヒット抗争となった。まさに猪木のしてやったりである。そして、ニュースステーションがプロレスを扱わなかったのも久米宏が居るという理由だけであったことも、ファンは改めて知る事となった。元々日テレやテレ朝への入社希望は、かなりの部分でプロレスファンが多かったというし、普通に考えたら当たり前の事である。