追悼・アントニオ猪木・その14 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

1994年2月24日、新日本プロレスは全席5000円と言う、ファン感謝デー的な大会を日本武道館で開催した。全席という事は当然リングサイドも2階も同じ価格であり、当然発券するまでどこの席になるか分からないため、お得なようで実は不公平感満載である。当初はこれを恒例にする、との声もあったが、結局これが最初で最後となり、プロレス界ならではの「なかったこと」にされた。

 

まあそんな訳で、価格に釣れられてこの私も足を運んだ訳である。前日は幕張メッセのAOUショーに足を運んでいたため、2日連続でビッグイベントとなり、まだ若かったとは言っても疲れが残ったものだ。まあそれはさておき、この日のメインはバトルライガー初登場となった「橋本VSライガー」戦であり、その他の目玉は元小結の安田忠夫のデビュー戦である。

 

しかし、ここはあくまで猪木追悼のページである。大会の途中、スーツ姿でリングに上がった猪木は、田中ケロリングアナにより引退へのファイナルカウントダウン開催が発表された。この1994年の時点では、全盛期の猪木を体験した世代でもまだ30代であったから、まだまだ当時の猪木信者も会場に足を運んでいた時代である。これはYouTubeで見る事が出来るが、未だこの時は猪木が新日本の電波に乗る事はなかったため、おそらく放送時には放映されていないはずである。なので、私自身もこの時の映像を見たのはこれが初めてだった。

 

そして、この映像によるとカウントダウンの詳細は後日、とあったが、実際に引退試合が発表されるまで、何試合行われるかという発表は一切なかった。その翌月、東京体育館で何故か唐突に安田忠夫と組み、蝶野木戸修組との試合が発表された。この時代では珍しい東京体育館での大会、おそらく前売りが不振だったためのテコ入れだったとされるが、この頃は出来るだけ関東での猪木の試合は見たい、という訳で私もそれが発表されてからチケットを買ったものである。

 

一応テレビマッチとは言え、それでも国技館や横アリレベルのビッグマッチではない。なので、案の定というべきか1F後方にはかなりの空席が見えたものである。この時代の新日本のビッグマッチは大方埋まっていたため、何気にショックを受けたものだ。そして、試合も木戸修にかけたスリーパーがチョークを取られての反則負けというグダグダであり、期待はずれもいい所だった。しかし、その後猪木に促された佐山聡が、おおよそ10年ぶりに新日本のリングに上がるというサプライズ。

 

しかし、引退直後から事あるごとにプロレスを批判していた佐山聡、この頃も格闘技重視のスタンスに変化はなかったため、皆が皆歓迎という訳ではなかった。95年末に行われた小林邦昭とのエキシビジョン以降、プロレスに本格復帰しはじめた頃にはアレルギーはすっかり消えていたのだが、この頃はまだプロレスファンからの反発は強かったのである。