追悼・アントニオ猪木・その6 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

1990年と言えばやはりイラクにおける人質解放である。ただ、当然当時の私では詳しい部分までは分からなかったし、あくまでニュースからの断片的な記憶でしか残っていない。今こそ、ペールワン戦や、アリ戦の実績があれど、と分かるのであるが、当時の自分ではまだそこまでは知らなかったし、自分ですらそうなのだから世間などはもっと不思議であっただろう。

 

この件に関しては、今ググると当時の外務省のクズっぷりばかりが目に付くので、正直不愉快でしかないのだが、当然の事ながら日本の並の国会議員程度では猪木の世界的な知名度には及ぶべくはないので、つまりは単なる嫉妬という事だろう。まあそれはともかく、プロレスファンとしては誇りでしかないのだが、当時の私は特別猪木ファンという訳ではなく、すでに国会議員というイメージの方が強かったので、ここまで書いて起きながら当時はそこまで色々思う事はなかった。

 

そして、ちょうどその頃、ファミコン通信において唐突に4ページのプロレスの特集が組まれた。これが非常に良い出来であり、プロレスから離れていた私にとっては大変参考になったものである。当時の全男子プロレス団体が全て紹介されていたが、7団体と聞いて、新日本と全日本と旧UWF以来見ていなかった私はそれだけで驚いたものだ。その7団体とは、新日本、全日本、新生UWF、FMW、SWS、ユニバーサル、そしてパイオニア戦志であった。

 

そして年末の浜松の生中継で久々に新日本を見たが、この時は猪木はスーツ姿で挨拶だけしていたかと思う。その前後ぐらいから午後4時からの中継も家にいる時は見るようになり、1991年のスターケードin闘強導夢のムタと藤波の試合も見る事が出来た。当時はまだ「NWA王座は日本人は絶対取れないもの」という認識が強かったので、まさかの王座移動に驚いたものである。また、両者リングアウトのイメージしかなかったフレアーが完璧な3カウントで負けるのを見たのも初めてだった。

 

その頃から、土曜午後4時に家にいる時は必ず新日本を見るようになった。G1クライマックス以降はほとんど見ていたが、あいにくその年に猪木が試合をする事はなかった。しかし、当時の新日本は非常に充実しており、猪木なしでも大会場の集客は問題なく、世間ではプロレスブームの到来とも言われていたものだ。しかし、確かにリング上は面白かったものの、情報は雑誌にシフトしており、それか東スポを読んでいない人にとっては何が起きているのかさっぱり分からなくなっていたのも事実。つまり、プロレスがどんどんサブカル化していってしまったのである。