髙田延彦とUWFインターナショナルについて語る。 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

新生UWFから分裂したリングス、藤原組、そしてUWFインターナショナルの3団体は、当時「U系」などと称されたが、そのU系において最も人気があったのは最後発の旗揚げとなったUインターであったかと思う。旗揚げ初期の頃はリアルでは知らないのであるが、1991年末のバービック戦、そして翌年の横浜アリーナ大会あたりから、U系の中では最も注目を集める団体となっていったかと思う。

 

1990年から92年頃にかけては「プロレスブーム」と言われ、プロレス界が非常に活況であった頃である。とは言ってもゴールデンタイムではなかったので、その熱が一般までに伝わったかどうかは微妙であったのであるが、とりあえずその頃から興行成績は一気に上向きになってきた事は間違いない。まあ、これも1980年代の少年ファンが大人になり、自由にお金を使えるようになった事が一番大きかったのだとは思うが、それでも新世代の台頭により、1980年代後半の冬の時代よりも遥かに面白くなっていたのは間違いない。

 

そして、その当時は民放5局のうち、TBSとテレ東のみがプロレスのレギュラー番組を持っていなかった。テレ東に関しては、1980年代までは世界のプロレスを放映していたし、SWSの旗揚げ戦など単発でもちょくちょく放映していたが、TBSに関してはかつての国際プロレス以来皆無であったかと思う。一時、ジャパンプロレス時代の長州力を特集したり、再びプロレス中継に乗り出すのでは、という雰囲気もあったのであるが、当然ジャパンは日テレとの契約があったがために特集のみで終わっている。

 

それでも、親会社の毎日新聞が、力道山時代に後援していたせいかどうかは知らないが、ニュースや特番で稀に新生UWFやFMW、というより大仁田厚などの特集も放映されていた。前者はYouTubeでしか知らないが、後者に関してはリアルタイムで視聴していたので、大仁田の知名度の向上に一役買ったのは間違いない。そんな縁もあって、92年の有明コロシアムの特番を新日本の真裏で放映したりもしていたのであるが、やはりデスマッチ系だとイメージやスポンサー絡みの件もあるのか、長続きはしなかった。

 

そこで、ひとりカヤの外であったTBSが食指を伸ばしたのが、U系3派のうちのひとつであったUWFインターナショナルである。私は当時まだU系はあまり関心はなかったので、週刊ゴングの記事で読んだだけであるが、前述の横浜アリーナ大会を深夜枠ながら特番で放映した。これが深夜ながらそこそこ視聴率を取れたらしく、この辺りからしばらくUインターをプッシュしていくようになる。そして、10月の武道館は土曜日の午後4時から放映、つまりこれも新日本の真裏にぶつけてきた形となった。一応、家庭にはビデオデッキが2台あったので、両方見る事は可能であったのであるが、なんとなくTBSのやり方が気に食わなかった私は、新日本のみを録画していった。

 

そして、まあ今では色々暴露はされてはいるものの、ひとまず髙田が当時日本人最強クラスとされていた北尾光司を一発KOした事、そして髙田自身、新生UWFの頃と比べて大幅にシェイプアップされており、男前度がさらに増していた事もあって、一般マスコミからの注目を大きく受ける事となったのだ。もちろん、TBSも変わらずサポートを続け、看板でもある午後6時台のニュースのスポーツコーナーでも特集が組まれる。

 

これはわたしもたまたま見ており、今でも印象に残っているのであるが、髙田自身による「プロレスラーは本当に強くなければいけないしね。プロレスという競技は最強でなければならないというのが僕の信念なんで」という言葉には、当時まだプロレス最強論を信じ込んでいたプロレスファンを大変勇気づけてくれたものだった。

 

古くからのファンにとって、苗字が似ている事もあってか髙田は前田の弟分的なイメージが強かった。新生UWFになってからもその序列は崩れる事はなく、さらに船木誠勝の台頭により危うくナンバー2のポジションも脅かされ、どことなく主役になれない位置的なイメージが消えなかったのであるが、この北尾をKOした辺りから一気にスター性が増し、いわゆる「格」において一気にプロレス界のトップに踊り出た感があったものだ。

 

また、ファンならお馴染みであるが、前田や船木は猪木の影響下になかったのに対し、髙田は入門前から熱狂的な猪木信者で、猪木になりたいという一心でプロレスラーを目指していた人間でもあった。そうなると、純粋なプロレスファン、猪木信者上がりのレスラーの中で、最も成功を収めたのは髙田なのではないかと思う。この辺りの件は「泣き虫」や、最近のYouTubeでも詳しく語られているので、興味が湧いた人たちは是非見てもらいたい。同じくレスラーを目指していた人であれば、涙なしでは見られないだろう。

 

そして時は飛んで1997年10月11日、遂にPRIDE1においてあのヒクソン・グレイシーとの対決の時を迎えた。正直、当時はこんな対決実現して良いのか、と思ってしまうぐらいに大盛り上がりであり、それこそ対決の日まで髙田だ、ヒクソンだ、という話題で持ちきりだった。結果は残念ではあったものの、この時の舞台裏も最近になってYouTubeにおいて公開された。特に、舞台裏からの入場シーンは必見であり、これを見れば男なら一度はこんな舞台に立ってみたい、と思うのではないだろうか。

 

近年、YouTubeなどで多くのレスラーたちが共演を果たしているが、髙田に関してはほとんどその機会は見られない。なので、もうプロレス絡みの仕事などはしたくないのではないか、と言う印象を抱いていたので、ここ最近本人のチャンネルで色々語ってくれるようになったのは嬉しい限りである。PRIDEで敗北していった事で色々悪く言われたりしたかも知れないが、それでもプロレスこそ最強という猪木の信念をそのまま受け継ぎ、そしてそれを身を持って証明しようとした髙田延彦という人間を、私たちが嫌いになれるはずがないのである。