昨日、ジャイアント馬場の23回忌興行が行われたが、つまりは逝去からすでに22年と言う事になる。実際に亡くなったのは1999年1月31日であるが、それが公になったのは翌2月1日の午後7時だ。当時はまだネットの力は弱く、テレビがまだまだ主役だった時代であったので、御多分に漏れず私も適当にザッピングしていた。その当時、日テレは午後7時から名探偵コナンを放送していたのだが、アニメに全く無関心な私としては、普通に考えれば合わす事のないチャンネルだった。
しかし、その時に限って何故か日テレに合わしており、そして間もなくニュース速報のテロップが。なんだろう、と思って見ていくと、左から一文字ずつプロレスラーの…と表示されていった。プロレスラーに関する速報が出るとは珍しいな、と思ったのもつかの間、すぐさま「ジャイアント馬場さんが亡くなりました」との表示が。
この時の事は今でも良く覚えているが、とにかく「え!」としか出なかった。すぐに他のチャンネルに変えると、やはり少し遅れて速報が流れていた。まもなく、当時TBSの「フレンドパークII」を毎週見ていた母が血相を変えてやってきて「ジャイアント馬場が亡くなったって」と私に言ってきた。
この年の1月の時点で、体調不良により入院、との事実はスポーツ紙で報道自体はなされてはいたのだが、全日本プロレスの関係者でさえ実際の病状は伏せらていた事もあり、大方のファンは「まあ大丈夫だろう」と言う楽観的な感覚でいた。それから1ヵ月も経たないうちにまさかの訃報とは思いもよらなかっただけに、これは本当に青天の霹靂だった。
そこから動悸が止まらなくなった私は、すぐにベッドに潜り込み、それが治まるまで1時間以上じっとしていたかと思う。この時の私の心境と言えば、本当に「起きてはならない事が起きてしまった」と言う感覚だった。子供の頃から当たり前のように存在していた人が、突然この世の人ではなくなってしまったのだ。現実を直視しろと言うのが無理だった。
ようやく落ち着き、再びテレビを付けると、日テレの2054分のニュースでも取り上げられ、午後10時からのニュースステーションではトップで扱われた。久米宏のプロレス嫌いはファンに有名なので、果たして扱われるのかもどうかもわからなかったのだが、蓋を開けてみれば前述のようにトップニュースであり、そのまま15分ぐらいは流れたかと思う。そして、当時はおそらく絶対に流れる事はなかったであろう、テレ朝が日本プロレスを放映していた時代の、緑タイツのジャイアント馬場の雄姿までもが流れたのだ。
その後の、日テレの今日の出来事においても当然トップニュースで扱われた。しかし、私自身は動悸こそ起きたものの、涙は流れなかった。しかし、翌日の恵比寿のマンションからの出棺時に、元子さんが持っていた遺影を見て、本当に馬場さんが亡くなった事を実感すると、一気に涙があふれてきたものだった。その昔、何度もワイドショーで芸能人の訃報を拝見し、中には告別式が何万人ものファンで溢れた映像も見てきたものだったが、正直何故、実際に会った事も、身内でもない人の死にそこまで悲しむのか不思議で仕方がなかったものだったが、この時初めてその気持ちが理解出来たものだった。
そして、その夜のニュースステーションでは、これも当時絶対に放映されなかった「夢のオールスター戦」の映像がダイジェストながら流れた。あまりにも有名な大会でありながらも、これまで雑誌でしか見る事の出来なかった幻の映像を、初めて見る事が出来たのだ。もはや伝説とも言える、ツープラトンのショルダーアームブリーカーの映像も流れたが、ファン的にはこれだけでももうお腹いっぱいであった。
後日、日テレでも生放送で特番が組まれた。日曜の午後2時ぐらいからの放映だったと思うが、馬場さんのこれまでの日テレに対する功績を考えたら、出来ればゴールデンでやって欲しかった、と言うのが本音だ。この生放送以外でも、レギュラー枠の特番でも過去の名勝負が放送されたのだが、いずれも大迫力であり、それはこんな試合をしていれば視聴率30パーセントなど当たり前だな、と思ったものだった。
もちろん、技などは今からすると比べ物にならないほど少ないものだが、ひとつひとつの迫力が桁違いだ。主な試合としては、いずれも伝説中の伝説である、武道館プロレスこけら落としとなったフリッツ・フォン・エリック戦や、大阪球場でのフルタイムで有名なジン・キニスキー戦などであるが、それは当時流行り始めていたMMAの試合などよりも遥かに迫力のあるものだった。
当時、たまにガチオンリーの雑誌であるフルコンタクトKARATEなども読んでいたりしたのだが、編集後記に馬場さんの全盛期の試合に触れ、「改めてその迫力に圧倒された」「今は観客無視のシリアスな試合が流行りであるが、やはりプロである以上見られる事を意識しなくてはダメだ」などと言う意見もあり、ガチ信仰者まで納得させてしまう馬場さんの試合はやはりさすがだ、そしてやっぱりプロレスは凄い、と誇らしくなったものだった。
こうして、我々はようやく馬場さんの偉大さに気づくことが出来たのだが、それでもまだ十分ではなかった。それは、当時はまだ日本のプロレスこそが最高、アメリカは所詮ショー、と言う認識がまだ強かったからだ。しかし、2001年の高橋本以降、プロレスの仕組みが理解し始められたのと、WWEが次第に日本でも受け居られるようになっていくに従い、アメリカこそ本当の実力主義、と言う事がようやく理解されはじめていく。
そこで、まだ人種差別が激しかった1960年代に、若干20代前半の若さながらすでにMSGでメインイベンターとなり、一夜にして5000ドルもの大金を稼ぎあげた馬場さんの偉大さが再びクローズアップされる事となったのだ。一度でもアメリカ、特にニューヨークに行った事のある人なら分かると思うが、東洋人と言えばチャイニーズであり、日本人はかなりマイノリティな存在だ。で、そんな日本人がアメリカで出来る事と言えば、せいぜい日本人観光客の相手ぐらいである。
それで、いかに日本人がアメリカでドルを稼ぐ事がいかに大変か、と言う事を理解するのだが、そこで、前述のように今から60年近くも昔に、MSGでメインを張り週給で1万ドル以上もの大金を稼ぎあげていた馬場さんが、いかに凄い存在であったかをいやと言うほど実感する事となるのだ。しかし、この凄い事実が、実際に現役当時にどれほど理解されていたかは分からない。少なくとも、私が見ている時に限って言えば、ほとんど理解する由はなかった。そう考えると、もしかしたら馬場さんは、日本プロレス史上でも最も過小評価されていた日本人レスラーであったかも知れない、とすら思うのだ。
そんな馬場さんが不幸だったのは、アントニオ猪木が最も強く、カッコよかった1970年代中盤に、すでにレスラーとしては下降線を描いていた事だっただろう。年齢は5歳違いだが、全盛期は10年の違いがあるために、いわゆる猪木信者世代は馬場さんの全盛期はほとんどリアルタイムでは見ていない可能性があるのだ。
私の子供の頃でさえ、全盛期の映像などほとんど再放送もされる事はなく、見る事は容易ではなかった。その反面、猪木の全盛期の試合は続々ビデオ化もされていったので、そういう意味でも、新日本ファンからは馬場さんは蔑まれる事が多かったのだ。
しかし、今となってはそんな強い馬場さんの映像はYouTubeで見放題であり、そしていかに偉大だったかも、かの柳澤健氏が「1964年のジャイアント馬場」でたっぷりと綴ってくれている。この本の帯にある「イチローよりも、マツイよりも有名な日本人アスリートがいた」と言うコピーがたまらなく好きなのだが、海外で活躍する日本人アスリートが当たり前となった今だからこそ、その先駆者と言える馬場さんに、全ての日本人は改めて敬意を表すべきなのである。